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Channel: こころとからだがかたちんば
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2016年3月23日 水曜日 80年代の風が駆け抜けた夜

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帰ってラジオを点けると、鈴木慶一さん「サウンドアベニュー905」最終回。
ああ、しくじった。もう始まっていた。そうして、急いでバッグをまさぐり、ラジカセにUSBメモリーを差し込む。
番組途中から録音ボタンを押す。

ホントは、昨年師走からAMがFM放送開局して、もっと良い音で録音できるはずなのに・・・
間近に見える空塔から発射される電波を拾いやすいはずが、TBSラジオのFM波をうまくキャッチできない。
そんなわけで、40余年付き合いの長い友だち・TBSラジオは、今でもAMで聴いている。

中高生時代みたいに万全な状態じゃないから、こうやって途中から・・・とか、チューニングが合わないまんまでも、ともかく聴ければ良いじゃないか、と思っている。
それでも、聴いているうちそれだけでは物足りなくなり、ついスイッチ押す。
そんなことが多い。記録癖、溜め込み癖は治らず。

***

なあんだ、と思う。中高生時代と何一つ変わらない。
でも、昔より多少のお金がある自由はぜんぜん違う。
USB録音は、編集や消去も容易なうえ、カセットテープ時代より大してお金がかからない。

後から聴くのかい?
と思うが、昔カセットテープで聴いていた頃より、今のほうが繰り返して聴いているものが多い。
それは野外に持ち出せるポータブルmp3プレイヤーのおかげ。SONYウォークマンを買うお金は無かった少年も、今ではそんなぜいたくを楽しめる。
外で録音したラジオ番組を何度も聞けるしあわせ。

***

実は、今月入って早々、友だちみたいだった同僚後輩が突然死してしまった。
それとき浴びたパンチは、じわじわボディーブローのようにこたえていた。また春に大事なものを失う。

精神が狂気に向かうときがある。
ときおり迫る発作的なものが訪れる。ヘルニアの痛みやしびれ、今日は時折耳鳴りに視野の異常。
黙っていてもつらいだけ、で鎮痛剤に手を伸ばした。

そんな日の夜に、慶一さんの愉しいラジオはありがたかった。こころが救われる想い。
昔から生粋の東京シャイネスボーイ・慶一さん。そのラジオは理屈抜きで音楽の楽しさを伝えてくれた。
「サウンドアベニュー905」始まった頃、”現代版サウンドストリートだね”と距離を感じていたが、気付かぬあいだに「今日は何曜日だっけ?」としょっちゅう聴くことになっていた。

昔聞かなかった元春さんの日には、当時と違って誠実な語り口に胸打たれ、
ピッチカートファイヴが受け入れられず避けていた小西さんの日にも、まるで少年みたいに好きな曲を嬉々として掛ける小西さんの様にこころが動いた。

***

今日の慶一さん放送は、元有頂天・ケラさんとの新人バンド”ノー・ライセンス”の曲紹介。行進曲みたいで、いいかげんで、それがとても明るく活力を感じ面白い。
おととし夢の島で、横なぶりの雨風の中演奏した2人のデビュー。
聴くわたしも彼らもびしょぬれだった夏の夜を思い出す。

中高生の頃、教授、コニー・プランク、ホルガー・シューカイが関わったPhewや突然段ボール、フリクション含むPASSレコード・・・またはゼルダ・・・等々、真のアンダーグラウンド音楽が魅力的だった80年代初頭を味わっていたが、有頂天は断裂されたその後。

80年代後半「イカ天」バンドブーム同様、当時は否定的にしかとらえられなかった。
むしろケラさんは、脚本家・ケラリーノ・サンドロヴィッチ=ケラと知らずに、友人と芝居を視ていたほうの印象が強い。そんなケラさんと慶一さんが、数十年を経て繋がる事態が起きるとは思ってもみなかった。

***

夢の島ライヴでお腹が出て太ったケラさんの姿には隔世の感。
けっこうショックではあった。と同時に、じぶんが勝手に恋焦がれていた緒川たまきさんを奪っていった恋がたき、であることもよぎった。

別に個人的付き合いがあったわけもなく、一方的妄想だが、高野寛くんとの放送「ソリトンSide-B」に映る天使のような姿が忘れられない。

いろいろが頭のなかに駆け巡りながら、結果的に愉しい夜となる。
2年前に聴いたときは何とも思わなかったノー・ライセンスも、なかなか良くてCDを欲しいと思った。

■大村憲司 「THE PRINCE OF SHABA」1981■
毎年、春がやってきたら必ず聞きたくなる1枚。永遠に離れられない。

書いて作業しているうちに、魂の在り処を見つけたようで、少し楽になる。
春は来ており、桜や白モクレンを見上げる夜になった。















2016年3月27日 日曜日 「にちようび」

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テレビを視なくなってもう何年も経つ、と言った。
なぜ再度興味を持ったか。今は、テレビという箱(というより板?)じゃなくても、インターネット上でテレビを視られる。
そこで昔と変わらないタモリ倶楽部の姿や、NHKの「ドキュメント72時間」などに出会い、じぶんを救うもの・生きるすべとなるものは”まだここにある”と思った。

テレビ箱は、点けるとこちらの意志と関係なく、自動的にひたすら流れて行ってしまう。
いっぽうインターネット上で視るテレビはこちらから”見に行っている”。
だからと言って、どちらが良くてどちらが悪いとも言えない。ラジオはずっと流しているし。

昔「テレビばかり見ていると馬鹿になる」と子供は言われた。それはある見方では正しい。
この言葉が違うのは、「テレビばかり」という箇所で、今は何も箱としてのテレビじゃなくても色んな方法で見られる。
むしろ「テレビばかり」のテレビの文字を入れ替えると、よりいっそう事実に近い。

「○○ばかりしていると馬鹿になる」が正しいのかもしれない。
○○に入るのは、テレビのみじゃなく、ネットやゲーム・・・あるいは仕事、果ては思考だったりセックスだったり。要は、何でもいい。忘我できるものがあるのは良いけど、そればかりやってバランスを欠いてしまうことを指す、と解釈する。

***

テレビには過剰な演出があったり、あたかも現実という割には映像によって歪曲されることが多すぎる。それが視なくなった一つの理由でもある。
これは事実だろう。スポンサーが居て、1つの番組に編集しなければならなかったり、意図を伝えたかったりした際に夾雑物が混じる。

ふりかけられる調味料がさじ加減次第で全体変わってしまう、という点では何事にも通じるが、象徴的に見えやすく語りやすいのが「テレビ」なのだろう。
料理と同じで、ほんの少しの味の差が全体を決定させてしまう結果がある。

これは絵を描くこともそうで、それを細やかに語った一例は大竹伸朗さんの著書にある。絵を描く過程で、いつのまにか自分が自分をダマしにかかる境い目が来るが、それをどう振り切るか?といったプロセスは実にリアルで示唆に富む。

***

今朝。
ねむりつかれて目を覚ます。外はどうやらくもりのようで、室内の照度は低い。
室内は相変わらず汚いな、と思う。でも、どうやらこれが一応目の前の現実。それを片づけるには容易でなく、少しやっては疲れてしまい、外に旅立つ。そんなことをもう何十年もしている。

数十分前に目醒めはしたものの、ダルくて横になって、ラジオを小さいボリュームで点けながらうとうとしていた。
今日は彼女に会えるだろうか。連絡をしようとしながら躊躇し、外に出る時間までに何をして、何をしないか、を考えよう。
ふだんは何でもやり過ぎなのに、今日はずいぶんご立派で・計画的ですな、と自らに言う。

***

現実、とよくクチにしてしまうことが多いが、現実はひどくウソくさい、そう感じることが多い。
それを突き詰めていくと何が本当か?本当とは何か?などと思考のスパイラルに入る。
現実、と言っても、テレビではない実社会ですらウソくさい場面が、対峙せざるを得ない仕事場や生活の様々な場面に登場する。

戦下の現実を基準にするとすべては幸せなものだ、という認識もあるが、
一方ではそういったことを除いても、目の前で拭い難い事実に面することもある。歩いて出会う老若男女、日々出会ういろんな人の生きざま。

仕事に就いていない人から見える働いている人の姿。
病気の人から見える健康な人の姿。
基点が異なれば、世界はまったく別の姿に変貌する。

***

きれいごとを抜かしたくもないが、ひどく「現実的」になってもいけない。その頃合い。
じぶんと周囲の世界が、国とか経済・社会とか世界なんて視えない広さにコトを広げざるを得ないとき、途端に足元がわからなくなることがある。

そんなとき、好きなブログによく訪問する。さじ加減やバランスにおいて学ぶことが多い。
それらの人は別段”世間”的に有名でもなんでもないけれど、教えられ、時に励まされる。

日曜日がいろんな顔をしてくる中、今日は憂鬱なほうかもしれない。日曜日がよく見せる表情。
大貫妙子さんのこの記事は、1984年11月の雑誌「LOO」に掲載されたもので、よくこのページをめくる。

浮かない日曜日。
そう言ったらおしめえよ、といった気分調子の日には、こんな静かな世界を基調にすればいい。

■Steve Hiett(& Moonriders) 「Blue Beach - Welcome To Your Beach」1983■


1980年初頭 カーラ・ボノフ 「涙に染めて」

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春が近付いたせいだろう。
多少、家に戻ってからカラダを動かせる。ヘルニアの痛みは小康を保っている。ヒーターは付けているけど。
ふだん、外では歩きまくるけれど、室内ではネコのようにじっと丸くなって座している。

ゴミ屋敷の雑誌類をひっくり返すと「ポパイ」1980年2月10日号が出てきた。
思い出すのは、この雑誌に載った当時大学生だったお兄さんやお姉さんが自由を謳歌する姿へのあこがれ。それは、後にひねてしまった気持ちなど全く無くて、ひたすらのあこがれ。
そこにアメリカやニューヨークへのあこがれが重なっていたのは否定しようもない事実。

アメリカという国家の闇など知りもせず。
だいたいがSONYの画期的ウォークマンですら、絵ずらが浮かぶのは、Tシャツ&ショートパンツにローラースケート姿の金髪の女性が、ヘッドフォンで音楽を聴きながらウィークエンドを楽しむ姿。
そんな方向へのあこがれが、かつての日本にあったのは確かなことである。
こんな翌年にじぶんが、まさか暗く深いヨーロッパの魅力に引きずり込まれるなんか想像だにしていない。

当時は、夜な夜な小学生から続いた深夜ラジオ、そこにやっと手に入れたラジカセでカセット録音。
「夜はともだち」に「スネークマンショー」に、あるいはビルボードのチャートを追っては、毎週ノートにベスト・テンをペンで書く。
思えばYMOですら、まだアメリカを向いていたんだから。。。翌年3月に反逆的作品「BGM」に至る道をこの時点では当人たちもじぶんも分からない。

【これは加藤和彦さんの「パパ・ヘミングウェイ」録音風景の記事。バハマはナッソー、コンパスポイントスタジオ。
左から2番目・教授が短パン姿でくつろいでいる。この後ワールドツアー~BGMという生命の危機を誰もが感じないゆるさ。】

【同時期、ナッソーのコンパスポイントスタジオで録音されたロバート・パーマーの「シークレッツ」。
この南洋のアイランドレーベルが、アート・オブ・ノイズに繋がるとも思っていない。】

お兄さんやお姉さんのバイブル「ポパイ」のページをめくるたびに、そこに夢の世界があったことを、今夜ページをめくりながら思った。その雑誌のページに載ったカーラ・ボノフの広告をしげしげと見てしまい、シングル盤かたまりをがさごそと漁る。
好きだったシングル「涙に染めて」。

当時、終わろうとしていたイーグルス、コマーシャルで知ったJ.D.サウザー、リンダ・ロンシュタット、そんな一派の音楽の一つにカーラ・ボノフが居た。(一方では、ボズ・スキャッグス[&TOTO]といった『シティ・ポップス』。)
どれも毎週のベスト・テンで知った音楽。テクノとウエストコーストが共存する世界。
(思えば、ジョン・レノンの「ダブル・ファンタジー」を知ったのも「ポパイ」だったような、それを増幅させたのは、当時好きだった桑田さんのラジオだったような気がする。)

■Karla Bonoff 「Trouble Again」1979■
カーラ・ボノフの横顔とスカートから少し覗かせた脚。
きれいなお姉さんの写真と歌に酔い、ドキドキしていた。なんとウブな童貞だったことか。

今日は今日で、日中あくせくとまったく別の世界に身をさらしていたのに、夜に一冊の雑誌との再会で気分は良い意味で変わってしまった。あこがれや恋ごころは、極めて単純で、心を開かせ素直な気持ちに繋がっていく。

「涙に染めて」が入ったLP「ささやく夜」はおおらかな曲そろい。
そんな中には、有名な曲「The Water Is Wide」のカバーが入っていたりする。
アメリカの多くの女性ヴォーカリストの作品には、カントリーとくくるには失礼な(ある意味)洗練され切れない”いなか娘”っぽい影が見え隠れして、そこが好きだったりする。

子供の頃、土曜日の夕方NHKテレビでやっていた『大草原の小さな家』を想い出して切なくなる。
話し出すとキリがないので、今夜はこのへんで。。。






1982年1月 リンジー・バッキンガム 「トラブル」

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フリートウッド・マックに出会ったのは、FM雑誌+ラジカセという二大武器を手に入れて洋楽ポップスのベストテンを聴き出したころのことだった。1979年、シングルヒットした「タスク」。

その後、1982年シングルがベストヒットUSAでヒットしていくアルバム「ミラージュ」。
その成功もあってか、二人の才女 スティーヴィー・ニックス、クリスティン・マックヴィーのソロも発表され、違うタイプの2人の音にも出会う。

YMOに出会って以降、80年代前半はあくまでYMO中心ですべての寝食は動いていた。アメリカ中心にヒットするポップスは次第に主食じゃなくなり、リアルタイムのビルボードヒット曲は「副」として聴こえてくることになった。



その流れの中でリンジー・バッキンガムに特別注目した記憶や意識は、あまりない。
想い出すのは、1983年~のラジオ日本「サウンドプロセッサー」(22:00~)で、今泉恵子さん(スヌーピー)と大貫憲章さんの夫婦漫才のようなやりとりの合い間に掛かった「ゴー・インセイン」。1984年リンジー・バッキンガムのシングル。

その曲が掛かった後、大貫さんが、
『テクノフォークロックと呼んで欲しい。と本人が言っているそうだが、まーどーでもいいことで。。。』と言ったくだり。
つられて笑う。そんなラジオが鳴る、くたびれた1984年・夜の室内の感じ。

ジャケットだけは雑誌で見てきた1982年1月頃の作品「ロー&オーダー」。
「テクノデリック」「錻力の太鼓」等々に押されて聴けずじまいだった中身を確認するのは、パソコンを手に入れた後、21世紀初め頃。
昔のフォルダにそれらを見つけて、ここ最近聴いていた。

非中心である「副」に面白いものを見つけようとする姿勢は変わらず。
当時聴いてもピンときてはいなかったシングル「トラブル」は、シンセの音がとても魅力的で良く、この1カ月何度も聞いている。
理由はわからないけれど、「春がいっぱい」や「春咲小紅」みたいな「春っぽさ」を感じる。

■Lindsey Buckingham 「Trouble」1982■

これを聴くと、80年代がとうにじぶんの中で決着して終わってしまった後、87年にヒットしていた作品「タンゴ・イン・ザ・ナイト」に繋がる。
シングルカットされた「ビッグ・ラヴ」や名曲「セヴン・ワンダー」などは、未だに好きな曲である。

2016年4月1日 金曜日・深夜 「おファンク」

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4月1日が来てしまうなんて。
一年の1/4が終わってしまうなんて。。。と唖然としながら、桜を視てはシャッターを切って、猥雑な「フレッシュ」を横目にする。湧いて出てきた人のカオスがこっちに押し寄せてきては、避けようとしてネコのように路地に逃げ込む。

桜は美しいが、内面は無味乾燥になりがち。
今朝も数日前偶然手に入れたCDをmp3プレイヤーで聴いていたのだが、なにか違うなと。
カチッとした世界と同様、予定調和の形式音楽にうんざりしては醒めてしまう。

そんなときに、教授のB-2UNITなどに向かったりする。
B-2UNITは別格の存在であり、”ノイズミュージック”として括られてしまう類の音楽はつまらない。
音そのものがつまらないのではなくて、括ってパッケージしてしまった時点で興味が失われる。
強要される勉強や教科書が、学びから遠ざけるのとおなじ。

がさごそランダムにCD類まさぐり、次々掛けて、、、ぴたっと来たのがノー・ニューヨークにあるジェームズ・チャンスで、ずーっと聴いているうち0時も1時も2時を回ってしまう。(渋谷さんのラジオは録音ボタンだけ押して、あとで聴こう。とそっちのけ。)

1981年4月8日に始まった教授のサウンドストリートは刺激的で、いろんな音楽に出会うきっかけを作ってくれた。それを想い出しながら、そこから派生して知った音を聴くと、その後テクノ/ニューウェイヴに行ってしまわなければもっと聴き込めたハザマ音楽があったんだろうと思う。

79・80・81年と曖昧模糊と音世界全体がまったく視えない中、日々出会った音の不思議さは、今逆にカチッとパッケージされてしまった「出口なし」世界からの脱出口になりえる。
こないだ買ったケンドリック・ラマーやサム・スミスの音は面白いが、そういう今だけが全てじゃないだろ。

毎月買っていたミュージックマガジンの1982年1月号で「いま、なにがファンクか」という特集があった。すりへったページと毛羽立ち。ここで多様な評論家がYMO「テクノデリック」から始まり、ア・サーテン・レイシオとかファンカデリックとかブラック・ウフルなどと多様な想像力を「この1枚」に働かせていたのだが、特集を組むくらいにファンクが1つのキーになっていた。

時はアフター・パンクでニューウェイヴ勢力が強まり、1982年にはエレクトロニクスポップへと移ろうハザマ。

教授がファンク特集をサウンドストリートで組んで、自ら皿回しをした81-82年かけたのはフライング・リザーツ、ノー・ニューヨーク、スクリティ・ポリティ、スキッズ、王道のJB’Sなど。
黒人がやるからファンクでもなく、白人がやるからホワイト・ファンクというものでもない。

パンクには間に合わなかったじぶんは、ロックの否定としてのパンクという「ありていな理屈」すらハナで笑って、そのパンクまで否定しPILへ突き進んだジョン・ライドンの「フラワーズ・オブ・ロマンス」を聴いては『ロックなんてものはロクなもんじゃない』と思っていた。

今夜聴いた、かき集めたCD類。
79・80・81年あたりに聴けた響きは、テクノやエレクトロニクスポップが席巻したことでかき消されてしまった大事な「種」だった。

「ノー・ニューヨーク」と、それをたくらんだブライアン・イーノが狂喜した無名の音楽家たち。それとロバート・フリップとの共作「ノー・プッシーフッティング」を並べても異物感はなくて、同じ水脈の音。決してアンビエントとは思えず、共に「ファンク」に聴こえる。

「ノー・プッシーフッティング」のジャケットに映るイーノの姿は実に恐い。

また81年教授が掛けてくれたペル・ウブの作品だったり、サイケデリックファーズ初期や「ノー・ニューヨーク」のアート・リンゼイ、リディア・ランチなどの作品を聴きつつ、そのはざかいで鳴っていた稀有な音・ファンクだったものが、多くの商業音楽にかき消されてしまったことを今一度確認できた。

出来上がりすぎたものはつまらない。
カーラ・ボノフは女子アイドルやヒットメーカーやスターになれなかったが、だから今でも心に響くのだろう。
懐古主義でもなく、サブカルとかB級とか呼んではパッケージされたA級固形物と違うものを・・・という差異を求める(同じ)行為とも違う。

電話のコールが混じるジェームズ・チャンスとリディア・ランチの「ステンド・シーツ」は好きな一曲なのだが、音を絞って聴いている。言わずもがな、周りの家に「あの人、また金曜日だからって、AVタイムはやめてよ」とリディア・ランチのあえぎ声を勘違いされるからである。
実に「ファンク」である。



■James Chance 「Contort Yourself」1979■

【2004年スクラップブック】

2016年4月2日 土曜日 音楽備忘録 ブライアン・イーノ

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気の滅入りとあちこちの痛みから疲れ果ててしまい、イーノの「Lux」を聴く。
座してイーノについて書かれた本をひっぱり出してはめくり読む。

1982年買った、イーノの1975年LP「アナザー・グリーン・ワールド」。
阿木譲さんが書いたライナーノーツ。阿木さんはこの作品が生まれる前と後に、音の変化と共にポートレイトに映るイーノの姿の変化を発見する。

恋人で写真家だったリトゥバ・サァリッコが撮った裏ジャケットの写真。
手に取った本かノートをめくるイーノの姿。今でも大好きなポートレイトである。

1975年1月18日。
フィル・マンザネラのアルバム「ダイアモンド・ヘッド」録音スタジオからの帰り道、イーノは車にはねられる事件に遭う。そして入院へ。

「生死を彷徨うその事件は、結果として彼の音楽・思想・生き方まで変化を与えてしまった。」(阿木譲)

その病床へ、ガールフレンドのジュディ・ナイロンが18世紀のハープ曲を収めたレコードを持ってくる。彼女が帰ったあと、やっとの思いでレコードを掛けて、再びベッドに横たわるが、ボリュームが小さすぎて聴こえるか聴こえないかのレベルだった。
身動きすらままならない。しょうがない、と諦め、身を横たえていた。

小さい音と、雨の音、光。
それらが病床の彼に伝えてくるもの。

アンビエント(環境)を発見したもう1つの事件。

イーノの信者には、細野さん・教授・土屋昌巳さん・大竹伸朗さん・・・等々キリがなく居るが、大竹さんはアンビエント以降より前のイーノが好きだと言っていた。
決して嫌いではないが、ぼく自分はやはりアンビエント以降の70年代後半から80年代へのイーノが好き。

派手な衣装に身をまとい、後にパンクと呼ばれる人たちのあこがれ・発火点となったインパクト。それよりスーパーインテリの彼が、いのちの危機を経て、向かっていく音の姿・現れへの流れに影響を受けた。

ロキシーミュージックがデビューアルバムを発表した1972年6月。(当時、イ―ノ24歳。)
早々の8月にロバート・フリップと知り合い仲良くなり、9月にはイーノの自宅で「ヘヴンリー・ミュージック・コーポレーション」(ノー・プッシーフッティングに入った曲)を2人で録音している。

この後、ロキシーはアメリカからイギリスへツアーを重ね、1973年3月には2枚目「フォー・ユア・プレジャー」を発表するが、その7月にイーノは脱退を宣言する。

イーノはフリップとの作品創りや他のミュージシャンの作品参加する一方で、自らのソロに9月着手。。。絶えず精力的に音楽を産み出した彼。
本当かどうかわからない逸話では、彼は精力絶倫であったという。
そもそもハンサムないでたちで、まれなる頭脳とエネルギーを持った人だから、たぶんウソじゃないのだろう。この辺は教授にも共通する。

交通事故で頭に17針の傷を負った彼が、示唆となる体験をした1975年。
1月に事故に遭ったあと、5月9日に「ディスクリート・ミュージック」がイーノ独自開発のテープディレイにより録音される。

そして7~8月に「アナザー・グリーン・ワールド」録音、11月に発表される。
また同時にすすんでいた2枚目のフリップ&イーノ作品「イブニング・スター」が1976年1月2日に発表。

なんという時間密度なんだろうと驚く。
しげしげとイーノの写真を視て、音に身をゆだねる。

2012年作品「Lux」。4つのパートに分かれてはいるが、そこに在り続ける1つの光。
単位として使われる”ルクス”、ラテン語で「光」を意味するという。
イーノの信者だから、というわけではなく、精神をある状態にもって行ってくれる素晴らしい作品である。

2016年4月3日 日曜日 深夜ラジオ

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23時過ぎての帰宅。
ラジオを点け、着替え、湯を沸かす。遠くで鳴るラジオ。

出る前合わせていたTBSから馬鹿騒ぎが聞こえてきて、ラジオの場所に行って適当にひねり、元居た場所に戻る。
かすかに聞こえるラジオから素敵な曲が続いて聴こえ、?となる。ラジオ日本かな?

4月はラジオ番組改変期で、残念なことが多い。
最近よく聴いていたラジオ日本のジャズ番組かな?と思っていた。女性一人が語っていて違う番組らしい。
それにしては、きわめてクールな声。

。。。ラジオの場所に近付いて「あっ」となる。すべて合点が行く、大貫妙子さんの声だった。
初めて聞いたであろうニッポン放送の番組。大貫さんがDJなのは今日だけらしい。

数曲が過ぎてしまった後、座ってお茶を飲み、聴き出す。
なんと、ジョニ・ミッチェルの「ナイト・ライド・ホーム」から『パッション・プレイ』。
そして、ジョニとかつて付き合っていたジャコ・パストリアスがいるウェザー・リポートへ。。。

何年たっても古びない音楽、というテーマとのこと。
3・11で変わった大貫さんの人生観を語り、教授との作品がこの後掛かった。

じぶんの方に振り返れば、たくさん「古くならない音楽」はある。
一個人として。。。という意識はない。誰が聴いても永遠の音楽、と勝手に思っている。

そんな中、この番組や大貫さんとのまじわりで1曲選ぶなら、今夜はこれかな。

■Joni Mitchell (With Willie Nelson) 「Cool Water」1988■

水ぬるむ。そんな季節の空気が伝わってくる名曲。

「また、この曲ですか」といくら言われても大事な1曲。基本ジョニ・ミッチェルはどの作品であっても素晴らしい。天性の才能を持ったアーチストの音楽。

2016年4月4日 月曜日・深夜 春ぼらけ

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この休みに出会ったネコさん。
まるでお地蔵さんのような安らかな顔。屋根の上でまどろんでいた。

気付かれないように。。。とそろり、そろりシャッターを押しながら、距離を縮めていったんだけど、
このまんまの姿勢でまったく微動だにしなかった。


■Brian Eno 「Julie With...」1977■

ビフォア&アフター・サイエンスに入った静かな一曲。

2016年4月6日 水曜日 東京尾行

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モノを溜めこまないこと、は最近のクチぐせだったはずだが、
延々たるカメラとの歩き旅のさなか、ギャラリーなどにふらりと立ち寄っては、そこにあるチラシやポストカードを持って帰ってしまう。

こういったきれいなものは手に入れた場所と空間で見た行為瞬間が一番美しいことが多い。
家に戻っては積んでしまい、紙の堆積物は絶望的に積み上がる。

最初<モノを溜めこまないこと>と言ったが、実はそんな断捨離だの呼称される類のことより、こころは最近さらに進んでおり、<ものがあろうがなかろうが>全部最後は消えてしまうのだから、そこに<在っても無くても>変わりがないんじゃないか?

そんなことを思う。
達観できたわけじゃなくて、脳が肥大しているから、<思う>はころころ変わってしまうのだが。

***

この数ヶ月A4以上のサイズチラシと出会っても持ち帰らない。
その場で見て終わらせる、比較的。
でも、ポストカードは持って帰る。

なんでこんな話をするんだろうか?
それは、藤城清治さんの絵が大好きで、キレイなチラシを集めてしまう、そんな女性とお酒を呑む機会を得たからである。
いままで仕事の近くに居たのに、。。。3月送別会で初めてそんな仕事じゃない話しをした。
もともと肝臓を理由にそういった酒の場に行かない生活が5~6年続いていた。

昔と違って、酒の場では仕事の話はしないようにしている。つまらないから。
可能な限りいろんなおもろい話しをふりまく自分は、後輩くんに言わせると、あんたは<人嫌い>なんて言ってるけど実は案外社交的で、実は人が好きなんですよ。
徹頭徹尾人嫌いなのに、自分を慕ってくれる友人の後輩。彼にそう言われる。

彼女「チラシは透明ファイルに入れていくんですけど、溜まる一方で。。。」
私「それを見返すことはあるんですか?」
彼女「それが、なかなか無いんですよ(笑)」
私「やっぱり(笑)」

お互い絵が好きだという話から、お互い絵の専門学校に行こうと思っていたが父親から「そんなもんでメシが喰えるとでも思ってんのか」と一喝されたことまで同じ経験を話す。
4月から別の仕事場になった彼女に、酒の場で「キレイなポストカードを集めて上げますよ」、そう言った。今週もすれ違ったら催促された。忘れてはいないんだな、と思った。

人の出会いや「話す」ということは良いコトだな、なんてことを今になって思う。
ちなみに、ここには下心というものは余り無い。そもそも彼女は結婚をしている。

昨日今日、上写真にあるチラシを電車などでしげしげ眺めていた。
ずっとこれを写真と思っていた。しかし、そのチラシの「カラー写真」は、ビデオ撮影した途中カット画像に対して、ソフトで線を描いていったデジタルペインティング。

線を描く=トレースする作業を通じ・・・『トレースとは尾行である』と言う作家・佐藤雅晴さんの「東京尾行」展。
この展示では、”オリンピックに向けて変わりゆく東京を描く”がテーマ。そうチラシに書かれている。

佐藤さんが、私のような五輪反対を未だ周囲に言い続ける人なのか?あるいはただ単にアートの対象としてのことなのか?それは分からないが、展示が終わる5月8日までには見に行きたいと思っている。

***

このチラシを眺めているうちに、急に浮かんだ教授の「美貌の青空」が聴きたくなり、昨日今日と聴いていた。
とにかく素晴らしい。と当たり前の表現をしてしまう。
イントロの始まり方のカッコよさ、民族音楽への傾倒を通じて血肉化した教授の感性と耳が、様々な音楽要素を一曲の中にギュッと凝縮させている。
ドラムは<いわゆるロック>のドラムではない。あるいはテクノでもない。
きらびやかなデジタル音と打楽器等の響きが構成する音空間。それは整理されたジャングル的とでも言おうか?1つ1つの音が絡み合いながら均衡を保った美しいジャングル。
脳が先行しがちの教授にしては、まったく自然な流れ。

当時、テレビでだったか?鈴木慶一さんが「1995年という年に”美貌の青空”が<今>として強く刻まれた」と感動を伝えていたが、まったく同じ想いをする。

1995年初めてこの曲を聴いたのは、
大阪は梅田、阪神百貨店にあったブリーズという音楽ショップだった。
新譜が設置された視聴機で数枚聴けたお店。
ガラスばり窓から見えるは梅田駅前の交差点、クルマ、雑踏、ビルディング、空。。。密閉型ヘッドフォンからの音響がすごく良かったのもあるが、それらの風景の中聴いた「美貌の青空」には、<感動>という安い言葉で言い切れない深い唸りが、あの場と瞬間に在った。

ルー・リード「ベルリン」に影響を受け、B-2UNITの「ザットネス・ゼアネス」でむき出しの肉声をさらした坂本龍一の<うた>。よく彼のヴォーカルを「へた」と括ってしまうことは多いが、私はとても好きである。

彼の創り出すメロディーも曲もだが、デジタルであってもざらざらした<手ざわり感>。
「美貌の青空」の歌詞は売野雅勇によるもの。しかし、この曲においてもこもりがちな声はくぐもり、歌詞はむしろ聴き取れないくらい。それでも彼のヴォーカルは「いいなあ」と思う。一つの楽器になっている。

1982年ブライアン・イーノのインタビュー番組で、女性のアート評論家の人が言っていた言葉を想い出す。
70年代アンディ・ウォーホールが執拗に「ロー&クルーズ」と言っていたが、感動を生身のまま出したい、という創作スタンス。イーノの作品にも通じて感じること。
<そのこと>をこの評論家の人は「かわき(乾き)」という言葉で表現していた。

この言葉を借りるなら、教授の作品にもそんな「かわき(乾き)」があって、彼のヴォーカルにもそういった表現の源があるように思う。

今夜、一般の方がカバーした「美貌の青空」に出会った。
かなり原曲に忠実なカバー。砂原良徳さんがYMOをカバーしたものにも言えるが、原曲への敬意と愛が大きいほど、その曲にある要素を大事にする。このaniwarataさんという方のカバーにそんなことを感じる。

■坂本龍一 「美貌の青空」cover■






2016年4月7日 木曜日 春から夏への流れ 1986年 レッド・ギターズ

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おすすめミュージック「その1」といった具合だろうか。。。
■Red Guitars 「National Avenue (Sunday Afternoon)」1986■

暗中模索の夜。素浪人時代。
1986年夜、ピーター・バラカンさんと鈴木さえ子さんがNHK-FMで「全英ポップス情報」という番組を持っていた。そこでエアチェックした曲。

LPレコードのライナーノーツは1986年8月に書かれているが、ラジオではこのシングルがカットされた、もっと前の季節だった記憶がある。
この曲を収めたカセットテープには、1986年出会えた数少ないが貴重な曲ばかり。
そこにある救い。ニューウェイヴ最後のまたたき。

この曲を聴くと当時の夕方を想い出す。
樋口一葉が住んでいた菊坂あたり。そこに今でもひっそりとある図書館。御茶ノ水の予備校に行きながら、行っても何もわからない。さらにはほかに行くアテもなく、ひたすら歩く。
神田川沿いを伝って、水道橋で折れて春日通りを上に上がっていく。そんな日々。

図書館での逢魔が時、庭となった小さい公園で休憩がてらタバコを吹かす。
砂場と遊具が気持ち程度ある箱庭には、段ボールをリヤカー一杯積んだホームレスの人が休んでいる。お互い2~3mの距離で佇んでいる。

その人が持つミニラジオからナイターが流れる。
ときおり、ワーッという歓声が上がり、さっき通ってきた後楽園球場でのナイターを伝えてくる。
近くの球場からこだまのように聞こえてくる歓声の余波と、ラジオの音がずれながら入り混じる。

***

レッド・ギターズの他の曲はあまり聴かないが、この曲は春からの流れの頃に聴いてほしい1曲。
別に日曜の午後じゃなくっても、万人におすすめしたい。




2016年4月8日 金曜日 生誕祭

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今週の仕事をいったん切り捨て終え、耳鳴り・頭痛ありながら帰路を辿る。
少しでも空いた時間があればカラダで動きまくって何とかしようとするが、脳がどうしてもそれを追い越してしまう。
かなり働いて疲れ果てた一週間。それでもなにか心地良い徒労感がある夜。

今夜は、かつて相棒だったまみちゃんのハタチの誕生日。
お祝いということで、景気よく勢いづけ。。。というわけじゃないが色んな曲を収めていたUSBを差し込んだら、ファンクを中心に流暢な音楽が流れ出て心地良い。

・EP-4 「ココナッツ」
・エディプス(EDPS/ツネマツ・マサトシ)「デス・コンポジション」・・・etc

そんなうちに23時が近付き、チューニングをくるくる回す。
渋谷陽一さんの「ワールドロックナウ」を聴いて、洗濯機をガラガラ回す。

***

なんとチープ・トリックの新譜が出たという。
今持ち歩くmp3プレイヤーには「ヴォイシズ」「ザ・フレーム」が入っている。

インターFMでは今夜、血走った眼でパチパチキーボード叩く中、武道館ライヴから「I Want You to Want Me」が掛かった。デイヴさんの放送。つい「おおっ」となってしまう。

チープ・トリックに初めて出会ったのは、1979年作品「ドリームポリス」。
「ヴォイシズ」はその中のメロウなバラード。ビートルズの影を強く感じる美しい1曲。

■Cheap Trick 「Voices」1979■

渋谷さんの今日の放送。
インターFMで数曲聴いて「良いなあ」と思っていたアンダーワールドの新譜まで掛かる。

なかなか90年代以降の音楽について語ることも無かったが、アンダーワールドに出会ったのは1997年金曜深夜、FMのラジオCMから流れた「Born Slippy」が出会いだった。
毎週カセット録音をしながら聴いていた「電気グルーヴのドリルキングアワー」にて。

それを聴く家の別室では、まだ幼かったまみちゃんが眠りこけている夜。

今夜、渋谷さんが紹介した「Barbara Barbara, we face a shining future」というタイトルのゆえんを知る。昨年出たケミカルブラザーズやジョー・ジャクソンなどなど・・・欲しい新譜がたくさんある今。


1982年1月11日 月曜日 ~ 22日 金曜日 ふたりの部屋「夢の10分間」

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1982年1月11日~22日 ふたりの部屋「夢の10分間」(23:05~:15)
出演:斉藤晴彦、神保共子

1月11日 月曜日 その1
1・スクエア 「かわいいテクノ」
2・シリコン・ティーンズ 「レッド・リヴァー・ロック」
3・ジョン・アンダーソン(イエス)&ヴァンゲリス 「ステイト・オブ・インディペンデンス」
4・YMO(ホソノさん) 「マス」(「BGM」より)

1月12日 火曜日 その2
1・YMO(幸宏) 「カモフラージュ」(「BGM」より)
2・チューブウェイ・アーミー 「マシーン・ロック」

1月13日 水曜日 その3
1・スプリットエンズ 「インドのアルバートへ」
2・ゲイリー・ニューマン 「ジムノペディ」(サティのカバー)

■Tubeway Army 「Me!I Disconnect From You」1979■


2016年4月9日 土曜日 ~ 10日 日曜日 春の断片

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■Budd&Eno 「Failing Light」1980■




































2016年4月13日 水曜日 春のブルース

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朝目覚めると、外が薄暗い。
風呂に入ると沸かせていない。そういうこともあるだろう、焦るな、と昨夜の余熱と追い焚きでごまかす。

外に出ると雨。
電車に乗ると、まだ春の人間界はがたがた無駄なノイズを発生させている。

ひと仕事終えた帰り道も雨。あちこち痛みが走る苦しい夜。
傘を差しながらクリムゾンの「太陽と戦慄」を聴く島の暗がり。
「きょうの~仕事はつらかった~」と唄ってみる。眼から血が出そうなほど痛い。

岡林信康さんの山谷ブルース。
起きて家の外に出たら行き倒れた人を見る。それが日常茶飯事の三ノ輪風景だった。落ちているクソすら犬だか?人糞だか?も分からないどん詰まりの場所。そんな浅草・吉原・山谷・小塚原・千住に囲まれて育つ子供時代に始まっていたから、岡林さんが唄う哀しみを理解しているつもり。
だが、どっちかといえば、教授がスタジオレコーディングで缶詰めを終えた深夜。
幸宏と酒場で「ライディーン」のメロディーに合わせて二人で唄う山谷ブルースが欲しい。

赤ら顔で肩なんか組んで、箸をドラム替わりにチントンシャンと杯を叩いたりなんかして。
そんなことを想像するだけでも救われる夜がある。
それが今夜。

4月に入ってから、とても社会的にマジメな日々を”頑張って”いる。
疲れと心身不調から身を持ち崩してはいるけど、そんな今日さえ今日しかないのだ。
白井貴子のセリフの真似じゃなく、そう思えるだけマシ。三十半ばの可愛い後輩に死なれ、親は入院し、当人もぎくしゃくとデヴィッド・バーンみたいなぎこちない姿で必死な中。

ユーチューブでかつて観た「ライディーン」。
その動画は、一般の人が自分で写したんであろうブレる東京のビル群や人並みをバックにしたもの。苦笑というよりほほえみを伝えてくる代物。80年代当時なら『ださい』と言っていただろうが、今むしろダサくないかもしれない。

「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」を否定して次へ向かい、立ち位置と焦点を移さざるを得なかったYMO。その不幸と幸福とほとんどビョーキと。。。
12~13歳の頃、涙を流しながら聞いていたはずのビリー・ジョエルの「素顔のままで」にさえに懐疑的で否定にならざるを得なかった13~15歳のYMO初期から「BGM」「テクノデリック」への謀反へ。リアルタイムでそれらを聴き、同時代お互い走れたハザマの15歳へ。

そんな航跡を辿りつつ「ライディーン」も「素顔のままで」も素直に酔える今は、オヤジの懐メロ扱いじゃなく、航海の末に出現した境地。体内に駆動するためのガソリンを注ぎながら、ビーチボーイズ/ブライアン・ウィルソンらが、何周も回ってフラットに評価される今の幸福を想う。

三十余年響きは変わらないが、今夜のガソリン。

■YMO 「開け心~磁性紀のテーマ~」1980■
『あ~、もう、イヤ。(=YMO)だ~、け~、ど~、仕事さ。』各種エフェクターでマスキングされた幸宏ヴォイス。そこで吐露された心情。YMO初のノイズ化。
その後の謀反の出発点。








1982年1月11日 月曜日 ~ 22日 金曜日 ふたりの部屋「夢の10分間」

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1982年1月11日~22日 ふたりの部屋「夢の10分間」(23:05~:15)
出演:斉藤晴彦、神保共子

1月14日 木曜日 その4
1・ザ・リーグ・オブ・ジェントルマン 「インダラクティヴ・レゾナンス」
2・ペンギン・カフェ・オーケストラ 「カッティング・ブランチーズ・フォー・ア・テンポラリーシェルター」
3・ペンギン・カフェ・オーケストラ 「ピタゴラスのズボン」

1月15日 金曜日 その5
1・YMO 「灯(ライト・イン・ダークネス)」
2・坂本龍一 「ジ・エンド・オブ・ヨーロッパ」
3・ヴィサージ 「ザ・ステップ」

エンディングテーマ曲。

■Jean Michel Jarre 「The Last Rumba」1981■

FM雑誌(この言葉も死語)でザラ紙に印刷されたモノクロジャケットを視て、広告文字を読み、音を想像する。
そういったことが多くあった十代前半。

彼の「幻想惑星(1976)」や(のち1980年に出現する)YMO「増殖」そっくりのコンセプトジャケット「軌跡(1978)」などを視ては想像を膨らませていたはずだが、実際の音に出会ったのはこのラスト・ルンバが入った「磁界(1981)」。とすると、前2枚の作品ジャケットに出会ったのも「磁界」の広告だったのかもしれない。

ラスト・ルンバはB面最後の「磁界パート5」にあたる。この曲をどこかで聴いた人も多いはずで、様々な番組の間奏曲に使われてきた。とにもかくにもテクノの名曲であって、今まで多様な場面で聴いてきた。

だが、このポップな曲を聴いてアルバムを買おうというのは早まり過ぎで、基本はシンセサイザー・ミュージック。そう呼んでも何を指すか?これまた今の言語では通用しないだろう。
長い分数のスペイシーな曲は、タンジェリン・ドリームやクラフトワークと似て非なるもの。私的にはGoodだが、万人におすすめする気はない。

ジャン・ミッシェル・ジャールはフランスの人で、確か由緒ある家系の出身でお金持ちだったと記憶している。
それゆえか当時高価だったはずのフェアライトCMI(世界初のサンプリングマシン市販品)が使われている。一体どこにフェアライトが使われているのか?「磁界」にはまったくそんな音触はないし、当時そんなつもりで聴いてもいなかった。

ヨーロッパそのものが持つ歴史の厚みと余裕が、こういった人たちのおおらかで自由な表現を保たせ、許したのだと思っている。

30余年経ったレコードのインナースリーブのカビのひどさは、全く時間経過を覚えない自分の感覚と不一致。レコードの劣化はジャズやR&Bのレコードならもっともらしいが、「未来」だったはずのシンセやテクノのレコードだとちぐはぐさを覚える。

YMO熱を浴びた高野寛さんがソリトンSide-Bで言っていたことに頷いていたのを想い出す。当時最先端のテクノは後に振り返ってみると、案外演奏するミュージシャンのテクニック(肉体)という非デジタル=アナログに支えられていた。これを高野さんが語ったのが1995年でそこから20年が経過している。

私個人がそこに添えるとしたら、結実された音楽は、テクニックやセンスや(当時の)デジタル機器だけではない。
1つの音を鳴らすために夜な夜な費やした時間と労力、傾けた情熱。富田勲さんやNHKの現代音楽実験室などは良い例だが、そんな熱い夜が確実にそこにあった。

過去だけということでなく、ベンリな道具さえあればモノは産まれるか?
という疑問はいつもよぎることである。今で言えば、ITツールという道具だったり。

ありきたりな言い方になってしまうのは何だが、やはり、モノを産み出す/創り出す、ということには、努力や情熱が作用している。それは音楽に限らず映画でも絵画でも、あるいは道具そのものでも。。。

だからと言ってそんな”実験”は、いくら労力を掛けても成功もあれば失敗もある。
努力や情熱は、決して成功に結び付く法則ではない。しかし、才能やセンス、あるいは思い込んだ運命をこえる瞬間がある。そんな悪戦苦闘の果ての決壊を抱かねば、人は生きていけないのかもしれない。



書くうちに、今夜も脱線してしまった。

2017年4月 ポール・マッカートニー「ワン・オン・ワン ジャパンツアー2017」

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まさか2017年という想像もしない(未来)の地点で、ポール・マッカートニーのライブを見る。
そんなことになろうとは、ゆめゆめ思わなかった。
まるで浦島太郎のような感覚。
 
会場に来ていた人の年齢層は幅広くさまざまだが、リアルタイムの経験をしてきた先輩などは、特にそんな想いだろう。

時は止めることなど出来ず、常に流転し、歴史は常に更新され・上書きされていく。
「この人がビートルズなの?」という十代が居る、その「今」という一線上にポールがいた。
 
***
 
複雑な言い回しだが、ビートルズはポール・マッカートニーのバンドだったんだな、ということをライブで実感する。
そして、帰ったあと数日後、想い出したぼろぼろの本を出してきて、ふたたびめくった。
 
1940年・・・ ジョン・レノン、リヴァプールに生まれる。
1950年・・・ 土岐留雄、東京に生まれる。
1960年・・・ ビートルズ結成。この年、東京は、安保改悪反対のデモで埋まった。  
とはじまる一節。
精神科医中沢正夫さんの1986年の著作「他人の中のわたし」。
中井さんが実際に出会った患者と過ごした日々のお話し。

中井さんが仮称・土岐留雄に出会ったのは、1981年・彼が31歳の日。
「・・・それは一見して旧い旧い分裂病者の姿であった。 精神分裂病が治りきらぬまま、かたまっている状態であった。
かたまっているといっても、薄皮の下にはまだマグマが燃え盛っていて、いつ噴火するかわからぬ状態であるうえ、
人格破壊の深い爪あとを残したまま仮の平静状態になっているのだった。」(「時間を止めた男」より一部抜粋)

彼は1965年(15歳)の春に発病した。
中井さんは、話し込んでいくうち、自閉的で情報にとぼしい彼から、次第に理解する手掛かり(CUE)を掴み始める。
彼の一日の全容が分かり始める。

「AM7:30 起床。朝食を取らず、AM10:00までレコードを聴く(第1回目)。
・・・喫茶店・・・昼食・・・散歩・・・PM2:00 レコードを聴く(第2回目)・・・・PM7:30~10:00 レコードを聴く(第3回目)。。。」

彼はジョン・レノンがリードヴォーカルを取った曲だけを選曲して2時間40分に編集し、それを3セット、つまりは8時間。
毎日毎日ビートルズの好きな曲を聴くことを儀式的日課としていた。
そして、彼とビートルズとの蜜月、見事な時間軸との符号を中井さんは読み取っていく。

1970年ビートルズが解散したとき、土岐留雄は20歳である。
「・・・彼は1970年で時を止めて生きているのである。
自分の人生がそれより先へ進むことを拒んでいるのである。そのため1日8時間、彼はビートルズ・サウンドに乗って、1960年代に毎日遡行していたのである。」

これは何も彼(土岐留雄)特有のことではない。
YMOや80年代を巡る冒険の日々であったじぶんも同じであり、当時のビートルズファンも同様であろう。
じぶんが彼に寄せるシンパシーは、同じ病人であるという自覚でもある。

中井さんは、彼の凝り固まった状態を「治す」ことが、果たして彼を幸せにするのか?と書いている。
「・・・土岐留雄の手段は・・・哲学的である。
彼は、単に時間を止めているだけではない。ことこのテーマでは、彼は現在との間に通路をもっているのである。
・・・彼の病を治すとは、おそまきながらこの細いチャンネルをつかって、”彼の時間”を進ませ、われわれの時間(物理的時間)まで追い付かせることに他ならない。
そのことは、今の彼からあの”豊かな1960年代”へ遡行する楽しみをとりあげることになりかねない。
治ったとき、それに見合う新しい夢を将来に向かってもつことができないとしたら、彼は治ったことを悔やむだろう。
それでも治す!ということになると精神科医とはつまらぬ商売である。」
中井久夫さんも「世に棲む患者」で、同様の考えを記していた。
 
何を現実と呼ぶのか?何を妄想と呼ぶのか?
何が正常であり、何が異常なのか? 
それはその人その人の内と外のバランスにあり、誰にも断言できない。
 
音楽と言うのは1つの有益なドラッグだと思う。
言い方によっては、現実逃避に過ぎないと一喝されるだろう。
われわれが頭の固い親父に、幼いころよく言われた言葉であろうし、あまり音楽には詳しくなさそうな中井さんの口調や文章にも同じくだりが出てくる。
 
しかし、それでも、音楽は(薬品ではない)視えないドラッグだと思う。
それを細野さんは「グッド・メディスン」と言っていたが、そういったことが成り立つことがある。万全万能ではないけれど。

目の前の痛みやつらさを軽減させる効果を持つことは十分にありえる話だし、苦しい人にとっての音楽が1つの救いであることを妄想と誰が断定しようか?
もし現実逃避だったとしても、それが何だ、という風に、病人であるわたしじしんは思う。
 
他者がどう言おうが、その人にはなりきれない。
それは怖い事実だが、音楽を通じて外界と繋がることができ、他者と交流することもできる。貴重な「出口」への回路だ。
 
***
 
初めて目の前で見たポール・マッカートニーのショー。
まさに「ショー」であった。
 
70年代幼少の頃にビートルズを知り、その後しだいに追体験として知っていった彼らの音楽とメンバーそれぞれの在り方。
ポールは、楽天家で軽いなあ、という存在感はよく言われたことだし、目の前にはそのまんまの姿が見えた。なんとも軽い。
 
どれだけのつらい時間と物事を超えて、この人は今ここにいるんだろうか、というこちらの想いをよそに、フットワーク軽く2時間半という長いライブをぶっ通してこなす74歳の姿。
 
今ここを生きること。
日々のリハビリとトレーニング。
生き続けることに自信などありはしないから、日々今を生きる。

こうして、先を歩いて灯をともしてくれる陽気な引率者がいることは、この世にとって貴重なことである。
最近、そういったことをよく思う。

■Paul McCartney 「New」2013■


2017年4月27日 東京ドーム

1982年7月17日 土曜日 ビルボードチャート

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1・ヒューマンリーグ 「愛の残り火」
2・TOTO 「ロザーナ」
3・ジョン・クーガー 「青春の傷あと」
4・サヴァイヴァー 「アイ・オブ・ザ・タイガー」
5・ダズ・バンド 「レット・イット・ホイップ」
6・フリードウッド・マック 「ホールド・ミー」
7・ジュース・ニュートン 「愛のサンシャイン」
8・ソフト・セル 「汚れなき愛」
9・モーテルズ 「オンリー・ザ・ロンリー」
10・38スペシャル 「想い焦がれて」

1982年7月 ザ・モーテルズ 「オンリー・ザ・ロンリー」

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モーテルズの多くを知っているわけじゃないが、なじみ深いバンドで、ヒットした曲は未だに古くならず輝きが失せない。
彼らの曲は、まるで昨日のことのように、よく聞くことができる。

呑んじゃいけないお湯割りをちびちびと隠れて呑みながら聞いていると、場末酒場のカウンターみたいに思えてくる。
演歌をバックに痛飲している呑み助おやじの姿よろしく「もーてるずは、やはりええねぇ~」などと独りつぶやき、深々と目をつむる。
モーテルズには、そんな夜が似合っている。

初めて彼らに出会ったのは1982年初夏。
土曜夜、小林克也さんの「ベストヒットUSA」にて。

大きくヒットした「オンリー・ザ・ロンリー」「想い出のラスト・サマー」はEPレコードまで持っている。これからの初夏には良い。
21世紀に入って出た彼らのベスト盤CDも買ったが、繰り返し聴くのはヒット曲2曲ばかり。1回聴くと何回でも繰り返し聴きたくなる。

ヴォーカルのマーサ・ディヴィスはなぜ泣いているんだろうか?
なぜ目が真っ赤なんだろうか?

ジャケットに映る彼女の目。
意図して真っ赤なのか?
それとも、コンタクトが合わないのか?
出会った当時も、今も、ジャケットを見ては、そんなことを思う。

大きな目が印象的な大柄のグラマラスで艶っぽい女性。
情熱的に感情を吐き出す歌い方と声は、外見の印象同様とても魅力的で惹かれる。

今日気付いたのは、桃井かおりさんのけだるい感じをマーサ・ディヴィスに重ねていたこと。
桃井さんは「男たちの旅路」の頃から今まで好きな方だが、雰囲気がよく似ている。

モーテル、というと、アメリカの何もない1本道のわきにぽつんと建っている安宿。
というイメージが脳裏に浮かぶ。その道にはヒッチハイクをしている人がいる。

このモーテルという言葉は小さいころ妙になまめかしく、ラブホテルよりも隠微な響きに聞こえた。
そして、それらが有る地域は「きっと」京浜東北線や常磐線といった、都内山手線区内からはずれに向かって反れていく経路にある場末の歓楽街に違いない、という思い込みだった。

東京の貧しい下町で生まれ育った少年にとって、夜の国鉄の車窓からまたたくネオンライトはそういった連想を抱かせた。

モーテルズ、とはよく付けたバンド名だ、とつくづく思う。

■The Motels 「Only The Lonely」1982■




余談:モーテルという言葉から、急に映画の1シーンを想い出した。
「サンセット・モーテル」という映画で、内庭のプールでサングラスをして横たわる水着女性の姿。
90年代の初め、デヴィッド・リンチのドラマ「ツインピークス」のオードリーに夢中で、彼女が出演した作品を探している中でたどり着いた映画だった。

1982年4月 ジャム 「ザ・ギフト」

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初めてザ・ジャムで聴いた曲は「イートン・ライフルズ」。
アルバムとしては、リアルタイムで意識的に聴いた作品は’82年春の「ザ・ギフト」だった。

アルバムが発表された4月、FMのあちらこちらで新譜紹介がされ、テレビさいたまの「サウンド・スーパー・シティ」などではMTV『プレシャス』が掛かっていた。
たしか、大貫憲章さんの「動く姿」を初めて見たのは、このときだった。

この作品「ザ・ギフト」を良く言う音楽評論家は大貫さんくらいのもので、大方の人は辛い点数を付けていた。
リアルタイムでパンクを体感した人たちからすると、ザ・ジャムという名前の下で発表すべき作品ではない、と言った論調だった。
それをよそ目に、シングルカットされた「悪意という名の街(Town Called Malice)」はアルバムと共にイギリスチャートをにぎわしていた。

その一方、じぶんはFMで聴いた「ザ・ギフト」の曲たちを一発で気に入ってしまい、必死こいてエアチェックに励み、そのテープを繰り返し聴いた。

***

三大パンクバンドと言われた中の1つ「ザ・ジャム」へ期待されたものと、ポール・ウェラーがやりたい音楽が大きくずれていた。それが作品「ザ・ギフト」の評価を分けていた。

そして、ポール・ウェラーはこの作品を最後にして、バンドを解散させることを決意。
じぶんがやりたい音楽は「ザ・ジャム」ではやれない。。。
→ 翌’83年スタイル・カウンシルの結成へと繋がっていく。

***

「プレシャス」などホーンセクションを導入したファンキーなノリの曲や、スティールドラムなどで南洋の明るいムードの「ザ・プラナーズ・ドリーム・ゴーズ・ロング」など、パンクバンドとしてのリスナーではなかった人には、「ザ・ギフト」はキャッチーで分かりやすい曲に満ちている。
インスト曲「サーカス」は、当時ラジオ日本「全英TOP20」のチャート紹介のバックに使われていた。

どの曲も3分前後と短いのも、聴く側への分かりやすさを手伝っている。
手元に残ったエアチェックしたカセットテープには全11曲中9曲がおさまっているが、カセット分数は30分(!)のものを使用している。それくらい1枚聴き通すのには時間がかからない。

自作のインデックスカードに「The Jam Last Album」とレタリングされているが、それはのちに加えられたもの。
ジャンルは違うがイーグルズもジャムもマガジンも、初めて出会ったアルバムが最終作となるといったことがたくさんあった。

■The Jam 「Precious」1982■

1980年・81年ミュージックシーンは、多様なエスニック音楽を取り入れる(エスノ)、および、ファンクへのアプローチが主要なテーマだったが、「ザ・ギフト」はちゃんと1982年4月の音楽シーンと軌道を一にしている。このへんが実にポール・ウェラーらしい。

「プレシャス」は、ザ・ポップ・グループが分裂して出来たピッグバッグが演奏した曲とまったく同じテイストだったり、「ザ・プラナーズ・ドリーム・ゴーズ・ロング」がハイチやカリプソのエッセンスを取り入れていたり。。。
ポール・ウェラーの「”パンク”という十字架を背負うなんてゴメンだ」という謀反の意志表明がこの「ザ・ギフト」であり、その後に花開くスタイル・カウンシルのように思う。

1982年4月19日 月曜日 「WEEKLY HOT VOICE」

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1982年、朝日新聞の月曜夕刊に「WEEKLY HOT VOICE」という2面ページがあった。

いろんな話題を2ページにまとめた企画。
この紙面の作り方や内容は、雑誌「(当時の)宝島」や「スタジオ・ボイス」に近く、毎週楽しみに読んでいた。

「中川敏明の廃盤エレジー」というコーナーがあり、廃盤になってしまったLPレコードにまつわる想い出が詞的文章で語られていた。

第一回目は、ピート・シーガーの「レインボウ・レース」。
チャールズ・ミンガスやエリゼッチ・カルドーゾという音楽家の存在も、当時このコーナーで初めて知った。

このページは1983年まで続き、途中細野さんのコラムが登場した。
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