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2016年2月12日 金曜日・深夜 音楽備忘録 Eno’s Life & Non Style

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イギリスBBCで制作されたブライアン・イーノのドキュメントを見ることができた。
2011年のものらしい。

教授が、細野さんが、大竹さんが恋こがれたように・・・
ぼくもイーノのやることなすことに関心を寄せ、あこがれてきた。見ているうち、まるで家族みたいにしみじみしてしまう。
イーノのふだんのシーンは今までいろんな映像で見てきたが、このドキュメントにもたくさんの宝物が埋まっている。

うれしかったのは、大竹さんの文章でしか知りえなかったイーノのアイデアノート(日記帳?)の実物を見れたこと。
どんな風に書いたり扱ったりしているのか?

なるほど、そうなんだ。
動画を止めては少し戻り・・・何回も繰り返し見た。






一緒に暮らす黒ねこさんが、創作活動するイーノの横をときおり横切っていく。優雅に。
お互い関係ないかのように自由にしているが、一緒にいる。その距離感。



このドキュメント番組に、発見はいくらでもある。

考えてみれば、イーノはいつもユーモアを忘れず、冒険者の好奇心に満ちた顔つきをしている。
生き生きと楽しそうで明るい。

1982年に立川直樹さんがインタビューしたときのラジオテープでも、話すさまは子供のように豊かで無理がなかった。

先日亡くなってしまったボウイも、そしてこのイーノも根は明るいのである。
よくよく振り返れば、音楽に救いようのない暗さなど無い。
例えば、(絶大なシンパシーを覚える)Dシルヴィアンが背負わざるを得なかった暗さは、イーノにはない。

「ヒーローズ」や「ロウ」には確かにヨーロッパ的な暗さはあるけど、2人の天才が音楽に熱中した結果と思うと、もっと違う観点がうまれる。

***

この数日、イーノのソロアルバムを聴いていた。
むかしはソロ1・2枚目がどうも好きになれなかった。好きな曲はあっても、アルバムを通すと。。。というぐあい。
(一連のアンビエントもだが)神がかりとしか言いようのない「アナザー・グリーン・ワールド」ばかり中学~高校へと聴いていた。

ひさしぶりに聴いた1・2枚目は、違う響きをした。

***

自然なかたちで暮らし、考え、音楽を創作する。暮らすことと音を創っていくこと、この2つが同じ水位で繋がっている。
今回、イーノの姿を見て、改めて思ったことである。

その姿に想いがかさなる。
ボウイもそうだが、やっぱりただただ素敵で、ただのミーハーになっていく。

外と内の歩調を合わせること。
無理をせず風通しをよくしながら、それを前に置きながら、すーっと進んでいく感じ。じぶんのなかに取り入れたい。

■ブライアン・イーノ 「アイル・カム・ラニング」1975(ギター:ロバート・フリップ)■

あなたのおもかげをどこか街角でみつけるために
わたしは残された日々を費やしていよう

窓辺からゆっくり眺めながら
季節が変わるなら 変わるにまかせよう

だけど いつかわたしの夢は
あの庭の門から あなたを引き寄せるだろう

わたしはさまよいを重ねる船乗りになりたい

そうしてわたしたちは月明かりの下に
シルエットとなって浮かびあがって

わたしは窓辺にすわり 一人トランプに興じる
時が移るならば それもいいだろう

いつかわたしの妄想は あなたをわたしのドアにみちびき寄せるはず
そうしてわたしは あなたのくつのひもを結ぼうと
駆け寄っていることだろう






2016年2月15日 月曜日 音楽備忘録 マドンナ“レベル・ハート”ツアー

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13日土曜日、さいたまスーパーアリーナへ、マドンナのライヴを見に行く。
昨年12月のキング・クリムゾンに続いて、ただただ言葉もなく圧倒された。

クリムゾンは他に類をみない演奏力のすばらしさだったが、マドンナはライヴ全体が1本の迫力ある舞台だった。彼女がテーマの1つとするセックス/エロティシズムをダンス・映像・音に絡めながら進む2時間。ダンス・映像・音どれを切り取ってもすばらしいもの。CDでは味わえない目の前で繰り広げられる力。

舞台正面からからまっすぐせり出した細長いステージを、ダンサーたちと行きかうマドンナ。そのステージ形状は、ペニスと2個のボールのデザイン。その真ん中あたりは十字架を模し、先端の亀頭がハート型心臓部になっている。

「マテリアル・ガール」等初期作品から最新作「レベル・ハート」収録曲まで全作品からピックアップされた楽曲は、すべて新たなアレンジでリメイクされ、まったく違った新鮮な印象を覚えた。

ライヴでもアルバムでも“中だるみ“といったことがあるが、そんな言葉はマドンナには無い。一曲一曲、目の前でカラフルに変化していくビジュアルと音には、退屈感はみじんもない。

(クリムゾンにも感じたが)そうそう見ることのできない稀有なコンサートに15,000円は安すぎるくらいだった。ラジオで「5万円の席を買収して25万円で売っている者どもが居た」と言っていたが、連中の金儲け意図とは別に、それくらい価値のあるステージ。
「スター」と呼ばれる人にどれだけ本当の価値があるだろうか?
そんな疑問がよく湧く。
だが、今のマドンナには正真正銘その価値がある。(彼女がスターとよばれたいかどうかは分からないけれど)それが明快にわかる素晴らしいライヴだった。

マドンナは、もう他の追随を許さない存在として、まったく別の次元に突入している。
偶然か?意図されたものかは不明だが、ライヴ直前・直後の会場にマイケル・ジャクソンの曲が流れた。彼が亡くなった当時、痛々しさばかりで同調できなかったじぶんだが、今になって彼の存在の欠落は大きい事実を、この日思った。

***

マリリン・モンローのように、見せてなんぼの世界でナンバー1(=セックスシンボル)になる。それを目指し、疑似アイドルを演じるところからスタートしたマドンナ。

そんな彼女の本筋たるセクシャルな楽曲も良いが、個人的には作品「トゥルー・ブルー」が忘れられない。
このアルバムで初めて彼女を三流アイドル以上のアーチストとして意識した。たぶんそれは彼女にとってもそうなんだろう。今でも、ここに入った楽曲とそこに漂うマドンナの可愛さが好きだ。

このツアーライヴでは、赤いギター抱えて歌ったタイトル曲「トゥルー・ブルー」。
スパニッシュなメロディーが美しい「ラ・イスラ・ボニータ」フラメンコを踊るマドンナ。。。それらが唐突に始まるシーンには、得も言われないなつかしさがあった。



■Madonna 「Living For Love」2015■

ボウイの不在後、マドンナのライヴから新たなチカラをもらった夜だった。


2016年2月17日 水曜日 音楽おもちゃ箱 ~音楽散歩の夜~

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「賞なんかショーにすぎない」と突っ張ってきたのに、16日(火)インターFMから流れていたグラミー賞に耳をそばだてていた。2014・2015とやたら聴いたテイラー・スウィフトや渋谷さん経由で昨年知ったケンドリック・ラマー、そしてボウイへの追悼カバーなど。
こないだ渋谷さんのラジオ番組「ワールドロックナウ」でグラミー賞動向を話していたが、こういった世界も新旧交代・人材不足とでもいうのか?大多数の賞をケンドリック・ラマーに集中する動きがあると言っていた。結果は知らないし、活気さえあれば誰が取っても構わない。


家に着いてラジオをひねった途端ヴァーナ・リンドの「アテンション・ストックホルム」が流れて、スイッチをまちがったのか?という錯覚にとらわれた。しかし、それは鈴木慶一さんのTBSラジオ番組「サウンドアヴェニュー905」だった。

なぜ錯覚?と思ったかは、散歩小旅の七つ道具・200曲も入らないmp3プレイヤーに「アテンション・ストックホルム」が入っているからであった。「ヤング&ヒップ」も入っている。最近は、こんなシンクロニシティが多く発生する。
インターFMからmp3プレイヤーに入っている曲がよく掛かる。

かつて、この「サウンドアヴェニュー」を”サウンドストリートそのもの”と表現したけど、それは合っている。なんやかんや言いながら、最近では『あの雰囲気を継承してくれていることはありがたいことなのだ』と思うようになった。水曜の慶一さんは聴きたかったが、今日はまったく忘れていた。当時と今と違うのはエアチェックしない/できないこと。

★★
先週小西康陽さんは、放送で「こんな好きな曲ばかり掛けられる日がくるなんて」と言っていたが、そんな少年みたいな様にニコリとした。(ピッチカート・・・や○○系には苦虫つぶした顔をしてしまうのは変わらないが。)

慶一さんにしても小西さんにしても、選曲が素晴らしく、好きな音楽をひたすらゴッタ煮で提示していくのはきわめて健全で無理がなく、心地いい。

先週は、あまり聴かない佐野元春さんの曜日で、アルバム「スイート16」を振り返る特集をついつい惹き込まれて聴いた。「自転車でおいで」「また、明日」は別として、深く知らなかった彼のアルバムがこころに届いた。
彼の音楽ファンと論争・乱闘になった男子高校時代を思い出す。
なによりも佐野さんが(苦しい時代だったのに)振り返りながら、前向きに明るい声で「今」語る、重くない語り口に胸を打たれた。

★★★
最近、夜帰って家事をしている最中AFNを掛けていることがある。
むかしFENといっていた米軍国内駐留人向け放送は、いまAFNと呼ぶ。

そんな放送からある日時・不意に「愛の残り火」(ヒューマンリーグ)が掛かったり、相変わらず面白い。音楽好きだった小林克也少年の頃憧れて聴いていたのも、FENだった記憶がある。

その後小林少年は音楽を通じて英語がペラペラになっていき、「まるでネイティヴスピーカー」なDJとして国内唯一の存在になっていく。(ミュージシャンで言えば幸宏さん)

今夜もAFNが今背後で掛かっている。さっきコールドプレイの曲が流れた。彼らの曲はラジオに適している。

★★★★
きょうも”おしごと”は地方都市への小旅行、朝も早よから向かう。朝日と青空がまぶしく明るい。
ゴトゴト車窓からの風景を眺める行き来は、小旅を続ける身には楽しかった一日。

午後都内に戻るが、牢屋みたいな事務所内に居るより、やっぱり旅しているほうがいい。

夕方、インターFMからシンニード・オコナーの「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」が流れた。
ひさしぶりに聴いた気がする。ヒットした当時ラジオからずっと流れていた。
この曲がヒットした年(1990年)の年末の渋谷さんのラジオ番組で、この年を代表する曲として語っていたように思う。

その頃より今のほうが、こころに響く。

★★★★★
きょう脳裏で、マドンナの’98年アルバム「レイ・オブ・ライト」が一日じゅう鳴っていた。会議や打ち合わせ中も。
じっさいmp3プレイヤーから、朝や夜の道で流れていたのは、ロバート・フリップ先生の「レット・ザ・パワー・フォール」だったりするが、音を聞いていないときには、つい「レイ・オブ・ライト」が鳴ってしまう。

「レイ・オブ・ライト」は「トゥルー・ブルー」とならんで、みずみずしく新鮮な一枚。
美しく繊細な音色(おんしょく)はウィリアム・オービットのプロデュースによるもの。

ウィリアム・オービットは、ハウス以降分派した新しいアンビエントへの潮流のなかから現れた。
そんな彼の音楽を知ったのは、90年代後半2枚組CD「ア・ジャーニー・スルー・ザ・エレクトリック・アンダーグラウンド」の曲だった。

専門家じゃないので彼のすべてを知っているわけじゃないが、このCDに収まっている「Water From A Vine Leaf」は出会ってから、折々の季に聴きたくなる。
この2枚組CDの選曲と流れは素晴らしく、いっとき聴き狂った。


■Madonna 「Ray Of Light」1998■

この曲は、1998年春から夏に向けての季節、インターFMでヘヴィーローテーションで掛かる一曲だった。
土曜のライヴでは掛からなかったが、今でもじぶんにとっては素晴らしい作品。オススメの一枚。

ライヴを一緒に観た高校からの友人セミくんと話していた。
初めてマドンナを知ったのは克也さんの「ベストヒットUSA」で、「ラッキースター」か「ホリデー」か、それとも「ボーダーライン」か、、、、お互いそうだったね。こんな話を丸一日しゃべっていた土曜日だった。

2016年2月23日 火曜日 「ニューウェイヴ・カセットシリーズ ⑤ 1981年12月~1982年1月」

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1981年ヒットシーンの総括カセット③④とは違う⑤。
1980、1981年~82年と日々続いていく、ニューウェイヴシーンど真ん中のカセットテープ。
豊かでイマジネイティヴ、希望が詰まった選曲。これは今も有効。

ほとんどはクロスオーバーイレブンのエアチェック。
A面はすべてクロスオーバーイレブンからの録音。
B面1~2曲は夕方「軽音楽をあなたに」より。そして3曲目以降クロスオーバーイレブンに戻る。

***

ペンギン・カフェの「エール・ア・ダーセ」には、ある音楽評論家が言っていたことを想い出す。
「彼らのクチさわり良い音がココチ良いが、逆にうっすら感じさせるブキミさ。」

それを言ったのは(中村)とうようさんと思っていたのだが、雑誌をめくるとそうではなかった。
とうようさんは不気味で怖い音楽としてイーノの「ミュージック・フォー・エアポーツ」を挙げながら、ペンギン・カフェは”あの怖さにくらべ好意的にとらえている”。

とうようさんが指す「ミュージック・フォー・エアポーツ」の怖さ感覚は、じぶんも分かる。
初めて聴いた1981年秋から1982年に向けて、そんな怖さをよく感じた。
それはボウイ、ハロルド・バッド、ララージ、ジョン・ハッセル等々関わったどの作品にも通じるが、もっぱら音楽を聴けるのは夜から深夜という中、音が鳴る時間の波間の裂け目に(彼がよく言う)オルタナティヴ・ワールド、つまり此の世に居ながら別世界を見てしまうのだ。

それは過感な少年時代だったから聞こえた/視えたのもあるが、実際そんな意図を音として実現させてしまうイーノの才能と狂気が勝っていた。

ペンギン・カフェのアルバムは、確かにイーノがプロデューサーだったが、ほとんど自由にサイモン・ジェフスがやりたいように作ったもの。
それは故サイモン自身が言っていたこと。
信頼して自由にやらせてくれて、スポットを当ててくれたことも含めて、イーノに感謝していた。(天にも昇るような想い、と言っていた。)
サイモン曰く、困ったときだけイーノは「こうしたらいいんじゃない?」と支援した。

***

B面2曲目「カリオペディスクオルゴールのメロディ」は、「軽音楽をあなたに」の新譜紹介のなかで掛かった。
当時出たレコード『オルゴールと自動オルガンの饗宴』の1曲。
オルゴールの響き(それは公共BGMや冠婚葬祭用ではない)が美しくて録音を残した。

ゼンマイを巻いて曲が流れ、終わるとカチッと音がする。
この自動演奏は、思えばイーノの自動演奏とリンクする。
ペンギン・カフェ(&イーノ)~オルゴール~ティム・ブレイクと繋がる流れ。それは意図せず1つづつ好きな曲を録音していった結果の偶然が生んだ産物。

オルゴール曲のカチッの後にピヨヨヨ~ンと宇宙の音が小さく始まり、うねりとなっていく「宇宙の灯台」へ。

そう見ていくと、カーズの明快ポップな「シェイク・イット・アップ」からの曲が解毒剤として混じっているものの、カセット全体を陰鬱な空気が支配している。

この当時、ジャパンのアルバム「孤独な影」やこのような音楽を毎日聴き、”あやしい夜をまって”ひたすら救いの夜が来ることばかりラジオに託していたじぶんは、陽が射す日中・周囲に不気味がられていた。洋楽を色々聴いている仲間は極めて少なかったので、わけのわからん音楽を聴いている者扱い。
たぶんこの頃、何か事件を起こしていたら、という後の「世間」の三段論法は想像がつくこと。
(ただ当時の「世間」のほうが、確実に異人に対する理解力と包容力があったと思う。)

本人だけが抱える”ほとんどビョーキ”状態の悩みは、周囲にオーラを放っていて、みうらじゅん先生の逸話も今でこそ笑いに変えているが、そんな分かりやすい話ではない。

ここには、元タンジェリンドリームのピーター・バウマン先生が「ボクもテクノポップやってみました」という曲も収まっている。
残念ながらエドガー・フローゼが昨年亡くなってしまったが、ピーター・バウマンは”今でこそ”と思って音楽を再び始めたニュースを見た。
「ホーム・スイート・ホーム」は、バウマン先生の声が違和と不気味さと優しさをたたえていて好きだった。

また、このカセットにはサントリーのウイスキーCMで、ミッジ・ユーロがかき鳴らすギターに始まる「ニュー・ヨーロピアンズ」が入っている。衝撃的カッコよさをお茶の間に流した歴史的一曲。
ウルトラヴォックス人気はこれを機に盛り上がり、来日が決定する。
1981年ニューウェイヴシーンは、ニューロマンティクスの影の立役者ウルトラヴォックス対YMOの構図が1つの事件だった。

■ULTRAVOX 「New Europeans」1980■

2016年2月25日 木曜日・深夜 写真日和 「青空」

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こもった天気の日が続くと、写欲をなくし全くシャッターを押さない。
月、火、水、木。はっきりしない天気が続く。(明日[まもなく]は晴れるらしい。)

雪の気配と底冷えがするから、金属のカメラをつかむ手を、ポケットから外に出したくない。
冷えの中にあと数ミリで春が間近にあるのが、気配をつかむ神経の指先には感じられるけど、まだ数ミリ足りない。

でも、どっちかというと天気と光にとぼしいから、押す気が体内から湧かないんだろう。

こういう曇りが続くと、青空が恋しくなる。
そんな休みの日がまた来たら、幸宏の「青空」を聴きながら外を歩きたい気分に戻るはず。あるいは、こんな曲だったり。

■大村憲司 「Seiko Is Always On Time」1980■
























2016年2月26日 金曜日 音楽備忘録

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80代後半に差し掛かろうとしてるのに、ガンガンに高音量でハードロックを掛けながら家事一切などエネルギッシュに何でもこなしてしまうお袋。さらに心底明るい声で笑う。この人がいるだけで、その場一帯の空気が瞬時に変わってしまう。
オシャレなのに、下町血が騒いで遠慮なくべらんめいで接し、誰にも明るく何でも熱くなるから、ケンカもあるが、行くとこ行くとこにファンが瞬時に出来てしまう。この人がもし営業マンだったら・・・などと思ってしまう。

その圧倒的バイタリティは留まることを知らず、ひたすら突き進む。それはじぶんが幼児の頃から変わらない。
ここ十年通う近所の美容院に行けば、音楽好きの20代の男の子と「アース(ウィンド&ファイア)はいいよね」などと会話しながら、その子にCDを上げたり、「こないだライヴ行ったんだけどさ。。。」という具合。
かつてマリリン・マンソンのCDを兄がプレゼントしたら、えらく気に入り繰り返し聴いた挙げ句、側近たるボクに「ライヴ行きたいからキップ取ってよ」と言われた。さすがにそれはやめときな、となだめ制止した。

前に行ったハードロックのライヴでは、地方から聴きに出てきた20代の女の子と会話しているうちに好かれてしまい「こんな歳なのに、かっこいい!」と一緒に記念写真を撮って帰ってきた。

そんな太陽のような人を愛するとともに、リスペクトしている。
この人がいなければ兄もボクも、ここまで音楽やアートにこだわらなかったのだろうし、今のような姿で生きてこれなかった。「親と子」という意識だけではない。

***

そんなお袋が動けなくなった途端、実家は一気に孤立した島になる。
それは2年前もあったこと。太陽が現れないだけで、家は一気にライフライン絶たれたような翳った場所になる。

昨年秋、親の様子を見に、実家に行った。
その時点では、その後入院にいたるまでのシナリオを考えていなかった。今回も反省点はある。
何もしない/できない親父と、全身湿疹でカラダを動かしちゃいけないまでのお袋。止まった時間が流れる家。

生きていくにはほとんどの家事はどうでもいい。
家が荒れても、そんなことは大したことじゃない。大事なのは暑さ寒さをしのぐことと、ハラが減ったら喰うことだけだ。それだけは譲れない。ボクは食材を買い出し、温めれさえすれば数日食べられるおでんとシチューを作りに行った。2015年10月のこと。

***

料理にはまだ早い時間、「洞窟おじさん」との出会いを偶然もらった。
親父はテレビの前でじっと座って観るじぶんに従った。親父と2人でドラマを黙って見た。そんなことはあまり無い。

家族と離れ一人でさまよい、洞窟を棲み処にして数十年生きてきた「洞窟おじさん」。
その実話に基づくドラマ。リリーフランキーさんが演じた「洞窟おじさん」と、施設で色々面倒を見てくれる役に尾野真千子さん。

静かに進むドラマにボクは感動していたが、観終わってから親父と会話をする。
一緒に観ていたので、何か啓示的な会話が成り立つだろうと思ったが、彼はまったく理解できておらず相変わらずの鈍感で不毛な話しに終始しただけだった。

***

このドラマには、絶妙の間合いで音楽が流れる。
ドアーズ、そしてレッド・ツェッペリン。
ドラマ自体も素晴らしいが、音楽がじゃまをせず効果的に流れる。それはBGMでもサントラでもない、ドラマと音楽、2つが両方立ったまま、鳴る瞬間を刻んでいく。
両方は共に生きた形で進む。

その後しばらくして、6つ上の兄と2人で酒を呑みながら話した。
ジミー・ペイジの権利主張があって今までツェッペリンの曲をそうやすやすと番組に流せなかったはずだが。。。最近、その規制が外れたのではないか?。

そうなのか。
ロッキン・オンがうすっぺらい頃から買い、長い髪でツェッペリンを聴いていた兄。

2年前の病室のラジオからも「天国への階段」が流れていた。シャレにならない時に。
そして今日インターFMから昼一番に流れた。なぜか最近、この曲が流れることが多い。

***method of dance***
きょうのシンクロニシティ。
インターFMで掛かったハッピー・マンデーズの曲「ステップ・オン」は、今時点のmp3プレイヤーに入っている。190数曲のうちに占めるものを俯瞰すると、どうも最近ダンスミュージックづいているな、と思う。

「世間」が差し示すダンスミュージックのくくりは知らないし、くくられる覚えもない。
クラブ(語尾上げる↑)は大学時代、掃除アルバイトしていたが、そんな目的以外で出入りしていない。

踊りたくなる音楽も、場所も、それぞれの人にとって違うもの。
ダンスミュージックも私的であってあたりまえ。先日マドンナの時間調整に出てきたDJはまさにジュリアナの頃の曲を掛けていたが、正直感心しなかった。

昔から今に至る曲がまぜこぜで入れ替えられていくmp3プレイヤー、およびパソコン内で聴いている私的ダンスミュージック。適当に入れ替えしているうち2016年2月はこんな具合だった今日。

・デペッシュ・モード ワールド・イン・マイ・アイズ
・MARRS パンプアップ・ザ・ヴォリューム
・ハッピー・マンデーズ ステップ・オン
・ケミカルブラザーズ&バーナード・サムナー(ニューオーダー) アウト・オブ・コントロール
・ケンドリック・ラマー オールライト
・サム・スミス リスタート
・ロバート・パーマー シルバーガン
・坂本龍一 ブロードウェイ・ブギウギ
・キング・クリムゾン 太陽と戦慄パートⅡ(これはダンスというより精神をドライヴさせる音楽というべきか?)

いずれもカラダが動いてしまうから、電車で聴くにはつらい。

■King Crimson 「Larks Tongues In Aspic Ⅱ」(1982Live)■
明日もあさっても野良仕事。生き繋いでいくには、音楽等々いろんな助けが必要だ。

2016年2月29日 月曜日 写真日和 「ぼくの中の東京」

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大阪から帰ってくると、我が島は雨降りの夜。しんしんと冷える。
こんな夜こそ、青空の下の幸福を。

第二のふるさと大阪から戻ると、体内のモードが変わる。

街の露地を縫ってずんずん歩いては切るシャッター。
だけど撮る一方で、その膨大な枚数のため振り返ることが少ない。

今夜は、東京と大阪。クツ底をすり減らし歩いた2つの街。
この2つを想いながら、昨年2月の写真をめくっていた。



■Blue Nile 「Downtown Lights」1989■
「ダウンタウン・ライツ」は元ユーリズミックスのアニー・レノックスのカバーも良いけど、やっぱり原曲。
決して上手とは言えない、朴訥としたポール・ブキャナンの歌い方が身に染みる。






















































2016年3月2日 水曜日 「沈丁花かおるころ」

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人は車とおなじで、エンジンとガソリンがなきゃ走り続けてはいけない。
そんなガソリンになり得るものをまさぐり探し、手に入れながら前に進んでいく。
ウソでも笑ったり、たいして興味なくても取り組んでみたり、興味持つふりをしてみたり、すること。

よく心理学や精神医学などにそんな行動療法が記載されるが、それはウソじゃない。
歩くことは、今のじぶんにとってそんな一つの大事な方法。気が進まなくとも一歩進んでみること。
そうしているうちに精神にドライブが掛かる瞬間がある。
闇に光が差すときがある。

いくらやっても晴れ間が見えぬこともあるが、うろうろしながら別の道を歩いてみる。
気が沈んでも、じっと進むこと。それはふだんどおりの今。
何かが現れ、着火され、精神がスパークするのを待ってみる。

みうらじゅんさんのこの十数年の行動には、根底にそれがあって、つくづく感心し・大笑いし・励まされる。

”人間はだれでも気違いだが、人の運命というものは、この気違いと宇宙とを結びつけようとする努力の生活でなかったら何の価値があろう?”

寺山修司さんの文庫本「ポケットに名言を」に入った好きなコトバ。
アンドレ・マルロオの『希望』という中の一節。

幸福/ハピネスを感じる楽曲は?
と昨日メモしてみた。そんな中の一曲。

■Stevie Wonder 「Overjoyed」1985■
スティーヴィーのヴォーカル・楽曲のすばらしさ。
サンプリングされた鳥の声や水や自然の音がメロディーの骨格をさらに際立たせ、久遠の響きがする。

もくれんが咲いた。











修善寺寒桜。

寒緋桜。































コチャコ。2012年2月。

2016年3月4日 金曜日 「春の想い出」

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3月3日 木曜日
けふも朝から地方都市で仕事。ふだんより早い電車に乗ってごとごと。
王さまが鎮座する御前会議・・・と名ばかりの会議。じぶんは主催者だがゲッペルスではない。

水曜前夜、その資料準備で遅くなる。
夜から翌朝の電車まで、(=。=)と絵文字で現せるような表情だったよう。いろいろあって気が滅入っていた。実は”いろいろ”という理由は無い。精神の浮き沈みが激しいだけ。
ただ、それは20数年経験してきた苦渋のおかげで、昔の一割くらいの不感症。”慣れ”は恐ろしい。

少しでも気持ちが明るくなるように、と前夜入れ替えたmp3プレイヤーの曲たち。
入れ替えるだけでもけっこう手間と時間と労力をくうのだ。
朝の晴れた車窓を見ながらジュリア・フォーダムの美しい声がそこから聞こえた。脳がじんわり沸き立つ。

「不安を持つも持たないも、いずれにしたって、避けようがない予期不安だよ、キミ。
イイ歳して、なーに中坊みたいなことを今ごろ言ってんだい。」
そこまで仙人になり切れていない。
”中坊”とは良い言いぐさだ。永遠の精神的中坊で何が悪い。
「このまま行くんだよ、このまま。」

いざコトに当たれば、時はすぐ流れ去り、イノチ取られることなく会議は終わる。そりゃそうだろ。主催者がイノチ取られてどうする。
終わってみれば何事も起きなかったが、こんなことは四六時中。

大阪から東京に戻ってから転がり流されながらも、間もなく丸20年を迎える。
要領を得ない反スピーディーなじぶん。それでも多少のディシプリン(鍛錬)がきょうを過ごさせてくれている。
他人にはどうでもいいかもしれない程度の一山を超えて、きょうもごはんがおいしい。

朝聴いたジュリア・フォーダムの「Porcelain」。
彼女に出会ってから何百回目の官能。。。心身共に彼女の声に包み込まれる。
好きな音楽はいつも、レトロじゃない。永遠に劣化しない、新鮮な味わいをわが身にもたらす。創られた時期は関係ない。

調べてみるとジュリア・フォーダムがまた来日することを間際で知ってしまう。どうしようか迷う。
昨年の今ごろ、別の恋人シンディー・ローパーが来日して、2つ同時に行けなかった。
浮気じゃなくて、2人とも好きなのだ。そういう意味ではたくさんの彼女がいて困る。
観たいライヴも立て込んできた。うれしい悲鳴というもの。

こないだぐちゃぐちゃの家(世間用語:ゴミ屋敷)にあるCD積み替え作業しているうち発狂。
とてもじゃないが整理はムリ、捨てるか売っぱらうしかねえ、そんないらちな沸騰状態になった。
それでも行為には及ばず。モノが捨てられない性格は永遠に続く。

結果、CDの渦を少しづつ分類し出す。
1つひらめいたのがフィーメルヴォーカルでかたまりにしてしまうこと。そうすると非常にわかりやすいことに気付いた。
フィーメル中心のグループも入れて、ヴォーカル以外楽器も入ってきて。。。という具合だが、音楽家として優れた女性でくくる。これで1コーナーを作る。

陽が長くなり出した夕べ、パチパチとキーボード叩いて仕事をするかたわらで鳴るインターFM。
デイヴ・フロムさんの番組から大好きなバングルス、ハートの曲が掛かってごきげんさんになる。

ジュリア・フォーダム、シンディー・ローパーといったソロアーティスト。
それ以外のグループに焦点をあててみると、どうだろうか。

その1つが「コアーズ」。英語でCorrs、と書く。
男女混合ユニットだが、4人のうち3人ならびにヴォーカルは女性。

出会いは1996年4月。
大阪から東京に戻された途端、「数週間撮影で太秦(うずまさ・京都)行ってちょうだい」といきなり関西にUターン。
平日は深夜まで撮影、太秦の旅館は畳の間に戻っても校正に打合せ・・・そしてただ夜寝るだけの日々。

そんな合い間に休日をもらった。
京都は四条烏丸まで出て、音楽ショップで出会った1枚がコアーズのデビューアルバムだった。ヘッドフォンで視聴出来るお店の新譜の一枚。
ヘッドフォンを着けて聴いた1~2曲目。その流れだけで即購入を決意するに値した。

「ラナウェイ」がヒットしたファーストアルバム。
新人アーティストを情報で”耳年増”になるより前に、じぶんの耳で発見した喜びが大きかった。

ヴァイオリンが入ったグループ、というとタキシードムーンの徹底した暗さやウルトラヴォックスがヨーロピアン・ロマンティシズムを演出する道具として使った音を想い出すが、それらとは全然違う。
コアーズはクラシカルで清潔感ある空気を醸し出す。

当時、土曜日の昼下がり、彼らの室内ライヴをFMで聴いてカセットテープに納めたが、夜よりも昼、それも風がさわさわと吹く春の日に似合う。
派手ではないけど、その誠実さに共感を覚える。

ファーストアルバムには1~2曲目や「ラナウェイ」以外に、「クローサー」という美しい曲がある。
個人的には、幼いころ聴いていたカーペンターズのような感触をおぼえた。

■Corrs 「Closer」1995■
「クローサー」というとついジョイ・ディヴィジョンがよぎる。
それは実にじぶんらしいが、全くの別世界。

1975 Pink Floyd ”Wish You Were Here”

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かつてシド・バレットを中心にしたピンク・フロイド。
最初1枚を残して彼がいなくなったことで、他のメンバーは、今後どうするかという岐路にいきなり立つ。
そこにデイヴ・ギルモアが現われ、その後のピンク・フロイドが進んでいく。

70年代の終わり、正確には1979年中学生の頃、ピンク・フロイドは「ザ・ウォール」と目の前に現れる。そこから後、じぶんが聞いて事実と思っていた話はこうだった。
スタジオ録音をしている最中、シド・バレッドが発狂して叫んで居なくなってしまう。彼はそれきり消息不明になり、作品制作もバンドもそのまましばらく頓挫した。

そんな話を他人に話したのは、逆にじぶん自身が”発狂”した後。転がり込んだ大学でだった。
片隅にでもじぶんがじぶんを置いておける場所を探す中、偶然出会えた友人MZ師とのおしゃべりでだった。
彼もピンク・フロイドについて、おんなじような言い回しをした。

80年代は文字を打てばすぐ検索出来る世の中じゃない。
雑誌や人から漏れ伝わる話しをそれぞれの中で咀嚼しながら、友人同士話しては確認し合い知識を膨らませていく。しかし、それぞれの見聞きしたものを持ち寄った割には、ピンク・フロイドについて似たようなことを言うのは、お互い共に気違いであり、だからこそ気が合ったのだろうし、お互い早々知ってはいけない何かを知ってしまい、それを素直に言って頷き合える相手を見つけたからだった。

中学から大学に掛けた十代の季節が、誰にとっても精神の危機とカベにブチ当たるせいか?
時代は80年代というのに、じぶんの周囲には、やけにピンク・フロイドのファンが多かった。
大学時代には、幾人も明白に精神を病んだ人と出会った。
病んでいると思い込んでいるぼくからすれば比較的普通と思える人でも、確かに或る場面にだけ顔を出す奇妙な振る舞い・言動があった。彼の居る空間に流れる時間と気配は、ほかの一般学生には無い、ただならぬ”普通”と一線を画す何かがあった。彼らが持つ違和感は感じる側であるぼく自身の持つ違和感でもあった。
ピンク・フロイドと彼らの不思議なまじわり合いは、彼ら自身が好きな音楽の音楽観というよりは直感に近い。精神の芯と結び付いているかのようで、彼らの話しにしばし登場した。

「ほとんどすべての曲を書き、ギターとヴォーカルを担当していたシド・バレットは、単なるリーダー以上の存在であった。そんな彼がなぜグループを急に抜けたのか。彼の発狂が原因とされている。
発狂の理由が何であったかは、はっきりしないが、シド・バレットがいわゆる天才肌のミュージシャンであり、非常に繊細な精神の持ち主であったことは確かだ。そして、シド・バレットあるいはその発狂はその後のピンク・フロイドの重要なテーマとなる。

ある意味でフロイドは、その後ずっとシド・バレットの発狂という影を引きずりながら演奏活動を続けているといっていい。
『ウィッシュ・ユー・アー・ヒア』というアルバムは、フロイドによるシド・バレット賛歌であり、一種のラヴ・レターとさえいえるのではないか。”シャイン・オン・ユー・クレイジー・ダイアモンド”は、シド・バレットに向けての最高の賛辞といえる。正気と狂気の狭間にあり、どちらの側もよく見えるという場所がフロイドの表現の拠点なのである。」(渋谷陽一 1990年著「ロックミュージック進化論」より)

渋谷さんのこの文章は、この後もシド・バレットとフロイドについて書きながら、友人シドへのロジャー・ウォーターズを察して、こうも言う。
「狂気を特殊なものとして見ず、世界が狂っているなら、それに順応できないものは全てが狂人であり、そんなら、むしろ狂人として生きる方がよほど人間らしい行為ではないか、そうした発想にフロイドはたどりついたのである。」

中学生の頃「ザ・ウォール」のヒットをきっかけにして、雑誌やカセットテープの懸賞やレコード店の棚や友人宅でピンク・フロイドのLPレコードジャケットを物欲し気に見ていた。
それでもちゃんと作品を聴き込むことになったのは、1981年彼らの一部の曲をまとめた「時空の舞踏」というLPレコードの発売である。初心者向け入門盤みたいなもの。エア・チェックをしてカセットテープで聴き込んだあと、LPレコードを買った。「狂気」は兄から既に借りて聴いていたが、それ以外のものを、ここからさかのぼって聴いていくことになる。

このLPにはアルバム「炎」からタイトル曲「Wish You Were Here(あなたがここにいてほしい)」と「狂ったダイヤモンド」が入っている。
思えば「炎」も発表から41年が経つのだが、今でも「狂ったダイヤモンド」のデイヴ・ギルモアのギターフレーズは衰えることなく心に響く。それは情緒的という意味じゃなく、音が言葉よりも語っている。何を言いたいか?言葉ががなくても”あるコト”を指し示している。

■Pink Floyd 「Shine On You Crazy Diamond」1975■

2011.4 Liminal

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先週、砂原良徳さんの2枚組「リミナル」を買った。
彼の作品では最新作にあたる。最新作と言いながら2011年4月発表。
作品自体は3・11前に制作完了している。その点では、細野さんの「ホソノヴァ」と同じ。

なんで5年経って購入したのか?理由は特にない。
あるとすれば、ネット等で知っていたそれぞれの楽曲を1枚通して聴いてみたいと思ったくらいなのか?

彼の作品でこれだけを持っていなかった。じゃあ、穴埋めで買ったのか?そうではない。
お金が無かったのか?貧乏人だが、それが理由でもない。

「ラヴ・ビート」からの繋がりを理解出来ずにはいた。
じぶんはよくこの”理解できる”の範疇外に行ってみたい、と意味も無い行動に移ることがある。
では、それか?というとそうでもない。

じゃあ、3・10が東京大空襲で、その翌日が3・11なので、この作品を聴いているのか?
というとそれでもない。

要は、何もわからない。
事実上は5年が経過しているが、その意識があるかないかもわからない。

2002.3 Tokyo Tri-X Pan

2016年3月11日 金曜日・深夜 音楽備忘録

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昨年・渋谷陽一さんのラジオを毎週聴くことを再開し出した。
おかげで、現在進行形の音楽をたくさん知ることになり、KeepOnNowな状態がじぶんの中に広がっている。

これは仕事をするかたわら、インターFMが流れる日々が始まった2年前からの延長線上で、体内で走り出した車輪。わたしにとっての新しい車輪。
これは「サウンドストリート」ではない、2016年製の車輪とボディ。

***

今週月曜、入院するお袋のピンチヒッターでTOTOのライヴを兄と観た。
その帰り道、武道館から離れた場所で酒を呑んだ。
70年代、初期のロッキンオンに出会い・サウンドストリートをわたしより先に聴いていた6つ上の兄。その兄と音楽を巡る話しをしていた。冬はあまり呑まないビールからハイボールへ。。。話題は渋谷さんのことに及んだ。

じぶんは老いたつもりは毛頭ない抗う妄想家。むこうは徹底的なリアリスト。
それでも、Timeは生き抜いた分だけお互いの歳の比率を接近させていく。
昔かたや小学1年生/かたや生意気盛りの中学1年生といった兄弟。
そんな会話が成立しない状態は、ツノを突き合わせる関係から、歳を経るごとにどんどんと会話の広がりを深めていく。

渋谷さんにまつわる話をしながら、お互い頷いたのが、いまだに「今」にコミットしようと貫く姿勢と執念への”あっぱれ”。そんな渋谷さんの姿勢は、自ら進んで背負った役割であり、本人はその道をまったく疑いようもなく冷静でいる(かのようだ)けど、長く生きていくということはそんな側面がある。

みうらじゅんさんは、最近ぽろっと”実はじぶんはそれに興味はさほど無いけれど、そう言わないと気が済まない”ニュアンスのことを吐露していた。

こんな話しを兄へ投げかけながら、会話のキャッチボールを続ける中で言ったコトバ。
それは、たぶん自分に向かってのこと。
(渋谷さん・みうらさんのことではなく)才能があろうが無かろうが、ともかくコレと思うなら続けること。それは「意地」という意味じゃなく。
人から説教受け・笑われ・馬鹿にされながらでも、それでもひたすら続ける。
それは1つの大事な方法であり、日々が変わりゆく中でさえ、何かが決壊し・活路が生まれる可能性があること。

■ケンドリック・ラマー 「オールライト」2015■
渋谷さんが盛んに語っていたこの曲は、肉薄した現場・背景はわからない。。。
と最初思っていたが、不思議と何度も聴いているうちに沁み込んできたのが昨年末。

ロックンロールやラップとくくる世界には興味はないし、そんな分け方をして聴いてもいない今。しかし、音は音として屁理屈は言わない。
まったく予想だにしない展開に自分自身が奇妙な空気に包まれ、驚いている。

ニューウェイヴ・カセットシリーズ ⑥ 1981年12月~1982年1月

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⑥のカセットも④⑤同様、ニューウェイヴでもなんでもない。むしろ相反する代物。
A面は「軽音楽をあなたに」で特集されたピンク・フロイド。先に話したベスト(?)盤的「時空の舞踏(A Collection Of Great Dance Songs)」より。
B面は、まだヘヴィーメタルという呼び方も浅いころの新譜曲が中心。

A面は、曲順を間違って書いてしまった。修正液が高価でふだん使えなかったから、仕方なく定規で消した跡が残る。

ピンク・フロイドで初めて出会った曲は「吹けよ風、呼べよ嵐」。それは70年代小学生の頃。
毎週土曜日の夕方見ていたプロレス、ブッチャーの入場曲だった。

あるいは夜のピンク番組のバックでかかる「虚空のスキャット」(狂気/ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン)。
光る画像加工がされたヌード女性が恍惚とする後ろで鳴っていた。

洋楽という意識で出会ったのは、1979年シングル「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」。そして、この曲を収録した2枚組アルバム『ザ・ウォール』。
レコード屋さんに飾られたヒプノシスのLPジャケットを想い出す。

***

B面のサクソンは、1980年ミュージックカセットで「鋼鉄の掟」を聴いていた。
今思えば、YMOやボズ・スキャッグスを聴いていたのと同時期で不思議なことだが、かっこよかった。
いろんな音楽が違和感なく、じぶんのなかで共存していた。

マイケル・シェンカー・グループも同じで、土曜13時からの「ポップス・ベストテン」で聴いたシングル「クライ・フォー・ザ・ネーション」(1980年)に始まる。
その後来日し、NHK-FMで放送されたライヴを録音したテープを繰り返し聴いた。特によかったのが「イントゥ・ジ・アリーナ」というインストゥルメンタル曲。
このライヴテープはのちにお金がなく、目の前のエアチェック番組に迫られて上書きしてしまった。

⑥カセットに収まるサクソンは「鋼鉄の掟」の次作品「デニム・アンド・レザー」。
マイケル・シェンカー・グループの曲は、「神」の次のアルバム「神話」に収録されている。

***

このカセットのなかで一番今と糸口が少ないのは、サッド・カフェだろう。
「サッド・カフェ」といえば、イーグルス最終アルバム「ザ・ロング・ラン」(1979年)のB面最後の切ない曲。

カセットテープ自体は今やない⑥だが、ネット動画のおかげでひさしぶりにサッド・カフェの曲を聴けた。
「10CCのメンバーがプロデュースを買って出た・・・」と雑誌にある。

単純に「良いなあ」と思う。(だからカセット録音で残したのだろうが)まったくの盲点だった。

■Sad Cafe 「Follow You Anywhere」1981■

2016年3月15日 火曜日・深夜 Beatniks ”Exitentialism”

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2016年3月15日 火曜日 晴れ 4℃/14℃
ヘルニアからくる眼や頭の痛み、しびれが強いここ数週。
三寒四温、春の芽が吹き出したというのに、冬に逆戻り。
つめたい雨や不安定な陽気が続き、調子を崩す。

夜、ふだん眠るより前の時間に明かりを消し、横になる。
珍しい時間。横になると、首への負担が軽くなる。身動きできない。”天上”を視て、入院中のお袋やアンビエントを発見したイーノのことを想う。

ラジオが聴こえるか聴こえないかのレベルで鳴る。
ヒーターのあったかい色味が、ぼんやり空間を満たす。
その明かりの下で、手が届く位置にあった雑誌ミュージックマガジンをめくり読む。こころが落ち着く。

YMOとムーンライダーズのエッセンスの合体ブレンドの奇妙さ。
北中正和さんが書いたビートニクス「出口主義」。

ヨーロッパ的な感触、ルイス・ブニュエルの映像。
そこにイーグルス「ホテル・カリフォルニア」が重なり、同時にYMOの温泉マークが亡霊のように浮かび上がる。
そんな北中さんが想ったイメージは、当人(幸宏・慶一両氏)たちも思っていたはず。
当初あそびで始めた目的を持たない2人の行為は、実験過程で奇妙な音像を描き出していく。

意識外の領域に踏み出していくことでは、イーノとフリップ、イーノとD・バーンが産み出した不可解な狭間の時空の響きに似ている。

音楽というものも、最終的に商品・アルバムとして世界に提出する段階で「まとめ」をしてしまい、微妙なニュアンスを殺してしまうことが多い。
だが、別に流通に乗せるために世界に提出する必要もなく、売れる必要もない。

形になるかならないかのレベルで漂っている「なにか」。
宙を舞うそれを何とか瞬時手に掴まえ、形にしたい。
そんなものが、70~80年代へ向けたインディーズの思想だったはず。

あんな未知の「何か」を観たり聴いたりしたい。
そんな想いは、今も可能。
それは90年代以降で言えば、例えばCDショップで出会えたトータス、レディオヘッド等々への喜びでもある。

■Beatniks 「詩人の血(Le Sang du Poete)1981■

ぎちぎちの監獄が完成してしまった2016年東京の片隅で、黙ってシステムに抵抗をしながら夜闇を過ごす。







2016年3月17日 木曜日 砂原良徳”Liminal”・・・&”Liminality”

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砂原さん「Liminal」を通して何回も聴く。
ネット上で各曲聴いていたときと違う聴こえ方。
作品発表当時のインタビューを再び読み、「Liminal」の語源より「リミナリティ」について考えたりする。

*リミナリティ:境界状態(人が社会から逸脱している状態)。人々が、所属する社会を移動する途中、境目。
日常生活の規範から逸脱し,境界状態にある人間の不確定な状況。
例として道化・トリックスター・シャーマン・修行者などの位置・状況。

それを調べていくと、阿部謹也先生の名前がちらほらする。シンクロする。
たまたま最近読みだした本は阿部先生の「世間とは何か」。1月親の見舞いの合間、神保町の古本屋で偶然出会ったもの。1995年の著書。焼けた本の姿と匂い。まだ読みきれていない。

世間さま、とよく馬鹿にした言い方もするが、いまやそれがこのクニ様のご中心であられる。くわばらくわばら。。。そんなことが適当に脳に浮遊すると、街をふらつく折・古本屋の寒空・100円均一処分本に見つけたりする。不思議なもの。

同時並行でパラパラめくる本が、寝るそばに積んである。
そういった本が、ぐるぐる回って止まらない雑念循環に歯止めをかけるのか?あるいは混乱を促進させるのか?
まあ、そんな大して難しいことより、生きるヒントが一行でもあれば、と思う。

池田清彦さんの「やがて消えゆく我が身なら」、みうらさんの「さよならわたし」、中井久夫さんの「世に棲む患者」、あるいは養老孟司さんの本などなど。。。適当に積み上がる。

***

「Liminal」をずーっと聴く中、入れ替えされる安価mp3プレイヤー内に教授(坂本龍一)の曲がありて、これまた不可思議な視点を見つける。
「Liminal」(2011)を「Love Beat」(2001)の延長線上でしか聴く発想しかなかったが、教授の「B-2UNIT」と交互に聴くうち、とんでもなくオーヴァーラップすることを発見する。点と点が線になる。

教授も砂原さんもココに至る経緯・経路は違うが、カチッとした予定調和世界への違和の表明という点は同様。「B-2UNIT」は、形式に従った資本主義音楽にうんざりするとき、原点確認も含め聴きたくなる。

「B-2UNIT」後、ポップスのフィールドに接近していく教授。
砂原さんはその逆の流れ。意識/無意識を超えて”今”を音に落としたときに、彼が何の作為もなくB-2UNITに酷似した音を鳴らしたことがとても興味深い。

■坂本龍一 「E-3A」1980■

15日深夜、痛みの果てで結局イーノ&バッドの「鏡面界」という処方箋に辿り付いた。あるいは、元々録音機として買ったmp3プレイヤーで、フィールドレコーディングした野外音を聴いて痛みを鎮めていた。

ニューウェイヴ・カセットシリーズ ⑦ 1982年1月14日

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この頃になると、何本かカセットテープが同時進行する。
埋まって仕上がったものから”No(ナンバー)”をふることになる。

キング・クリムゾンの「Matte Kudasai」は、エイドリアン・ブリューが作ったスロー・バラード。
日本語の「待ってください」という言葉の響きがとても美しい、ということから産まれた曲。実際は”待っていてください”という意味。
家路を辿った先にある幸福。

■ジョニ・ミッチェル 「ナイト・ライド・ホーム」1991■

ニューウェイヴ・カセットシリーズ ナンバーなしB面 1982年1月12日 

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ナンバーを付けたカセットテープ以外に、(未完)のまま終わってしまったものがたくさんある。
エアチェックして聴いていたけど、後日とある夜、特番やライヴ番組などが迫り、手元にカセットがそれしかなく、泣く泣く上書きしてしまった。。。
というパターンが一番多かった。

みうらじゅん先生が夜な夜な作詞作曲して録音した、自作DT(童貞)フォークのカセットテープに、B面途中で終わり=「未完成」としたものがある。その理由は、ジョン・レノンに影響を受けた結果とのこと。

じぶんはそんな理由ではなかった。

今ではインデックスカードだけが残る中の1本が上の写真。
(A面はのちのちとして・・・)B面は、1982年1月12日(火曜日)の「クロスオーバーイレブン」を録音したもの。

火曜日ということで、この日は教授の「サウンドストリート」~「ふたりの部屋」を聴いた後のことになる。

当日は、カセットNO.5のB面に3曲収め、ナレーター横内正さん(津嘉山正種さんの前任)の語りの合い間にカセットを即入れ替えて録音したものと思える。

タンジェリンドリームの「イグジット」は、この日初めて聴いた。
この辺の時期に買ったミュージックマガジンの「1981年ベストアルバム」で、LP「イグジット」を挙げる人が多く、この後1982年にレコードを買うことになる。

先週から今週に掛けて、mp3プレイヤーでひさしぶりに「イグジット」を一枚通して何度か聴いた。
35年経った今でも素晴らしい作品。
タンジェリンドリームの作品群は、80~90年代に渡る際起きた”ハウス/アンビエント”以降の流れの発生源の1つ。彼らにもじぶんらにも大きな影響を与えた音楽。

■Tangerine Dream 「Exit」1981■

2016年3月21日 月曜日 井上陽水 「United Cover2 Live」

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この休み陽水さんのライヴを聴きに行く。
熱心なファン・友人MZ師が昨年観た「UC2」コンサートの話しを聞き、キップを取ってもらった。

初めてお会いする奥さんと三人という不思議な組み合わせ。
彼らにとっては2回目のライヴだったが、まったく選曲が違うらしい。
飽きやすい陽水さんだから、何回も同じセットリストはかったるいんだろうね。。。そう会話しながら、それが演奏する側にはどれだけ大変か、を思えば、実はとんでもないサービス精神とも話す。

陽水さんは、何も変わらないかのようなゆったりさ。
そんなふらりとした様相でいながら、アグレッシブに「今」に打って出る。
その前進する姿は”円熟”とか”懐メロ”とか云う言葉すらせせら笑う。

拓郎さんの「リンゴ」をカバーしたいきさつとライバル扱いされたフォーク時代を振り返りながら、友人とはいいずらいが。。。着かず離れずというお互いの関係を語りつつ、語尾はあいまいにたぶらかす。

井上陽水らしさ、その一つはこういった断定を下さないこと。
それは人生の途中で体得したことだろうが、多くの誤解や離れた異見や・・・プラスもマイナスも聞こえているのかどうか解からぬまま。
歌詞にも曲の解釈にも「知らないよ」と言いながら、多くのふくらみを持たせながら、当人は言葉でくくろうとする人の手からするりと抜けていく。

(渋谷陽一さんだけではないが)D・ボウイが変わり続けることで、多くの作品を産み出していけた才能を話すが、同じことを陽水さんに思う。
変幻自在になんでも乗り越えられる、というかのように核心に迫ることは語らず、サングラスから満面の笑み。
多種多様な楽曲をさらりと演奏する。それが、いかにも陽水さんらしい。






1996年2月18日 日曜日 坂本龍一 「ABC(朝日放送)朝のテーマ曲」

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ずいぶんとテレビを見ない暮らしが続いていた。
物理的事情や中身への疑問など理由はいろいろだが、ここ数年、実家や病室で身近な人と選んで観る番組は楽しい。
意固地な性格はついゼロか100かに傾くが、そんな選択ばかりが重なり修行僧みたいになっていた。

極から極へという方法は正しくない。そう思いつつあった。
それに、昨年後半、ネット動画で視た(今の)タモリ倶楽部が面白く、まだこんな世界にも生き生きとしたものを知る。

テレビを再び見られる環境設定はしていないし、長く観る時間もないのだが、
その前に。。。と電気屋さんから中古ビデオデッキとコードを買い、この休みにそれをパソコンにつなぐ作業をした。

段ボール箱からビデオテープを出して、試しに1本観てみる。ひさしぶりに視る映像。
1996年大阪を去る前に観ていた番組の断片が録画されていた。
大阪の小さい部屋で、間借人は古っちいテレビで、気になるものをランダムに録画していた。そんな1本。

思わず「なつかしい」。
ふだんあまりこの言葉を使わないのだが、出てきたのがABCテレビ朝始まりの映像。
5時57分から放送開始の6時までのイントロは、教授の曲。

初めて知ったのは、その小さい部屋で阪神淡路大震災に遭った1994年頃だったか?
眠れ(ら)ない夜明け、偶然、この教授の曲に出会った。

今夜見た1996年2月18日の5時台のNHKニュースは、大雪の映像。
そして教授の曲の後、6時に始まったABCテレビ。その最初の番組が「おはよう浪曲」だったことにほっこりした。




















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