
中学生から見えた大人の男のカッコよさ。
それはダンディズムの象徴的存在=ブライアン・フェリーとの出会い前のこと。フェリーのフェリーらしさにも恋するが、彼とは異なる在り方がもう1つ。
ボズ・スキャッグスの在り方には無理が無い。永遠のナイス・ガイなんだな、と71歳になっても何一つ変わらない彼の姿を目の前に見て思う。35年前初めて見たプロモーションビデオの頃と変わらない。高い背に長い足、(ハラが出るなどのみじめさも何一つない)スタイルの良さ、揺るがず腰の据わったハンサムなまなざし。
6月11日オーチャードホールには、老年の方までもの幅広い層のオーディエンス、その中には彼のかっこよさに惚れた女性ファンも多かった。
すべて通すと約1時間50分。曲と曲の合い間に水を呑んだり休むこともなく、立って演奏し続けるエネルギーと若さとボズらしい自然体のありさま。

彼=ボズ・スキャッグスは、不良でもええかっこしいでもバブル野郎でもチャラ男でもない。なのに、革ジャンやスーツ・ジャケットにバイクにサングラスに帽子、それが何の嫌味もなく似合っていて、きわめて単純にかっこいい。それが中学生には不思議だった。
ボズを実際見たのは1985年のライヴだった。この頃か?それより前か?テレビ番組でボズのライヴ特番があった。合い間に日常風景を映したシーンがはさまっていたが、そこでもボズはボズのまま、何かを加えたりする必要も無く、立ちずまいだけで十分かっこいいのだった。
自分を卑下した態度で「おやじ」だの「おじさん」だのという言葉を使いながら、「何もしませんから、安全ですよ」と相手や年下に媚びへつらいながら生きている連中。それは2015年ニホンの周囲を見渡せば、同世代でさえいくらでも見ることである。
なんというぶざま。ぶざまそのもの。
どうして、そんなみっともない言葉を嬉々と使って、平気で開き直るんだ、といういきどおり。
ボズの立ち姿、その姿には、そんな「クソおやじ」のかけらもないいさぎよさがある。
五十が見えてきてしまった今。それでも、自分は決してそんな言葉は使うまいと誓う。
■BOZ SCAGGS 「JOJO」1980■


