Image may be NSFW.
Clik here to view.
『初夏のサウンド』と呼びながら「ぜんぜん初夏的じゃないじゃないか」と言われてもおかしくない。初夏に誘われて、みずみずしい音楽を想い出す心地良いときもあるけど、あまり関係のないものも多い。
私が2015年今の時期に聴いている何もかもの音を、ぜんぶ『初夏のサウンド』だと言い切ろう、そう括ろうという無茶な試み。すべては、その一点のみにおいて貫かれている。
文字も語られる目の前の出来事もシャッターを切られた場面も。
そんな強引な、すべてを覆う風呂敷一枚だけあれば良い。身勝手な感覚のほうに揺れたり戻ったり。
帰路、この数週間・何度目かの『ピアノ・フェイズ』(スティーヴ・ライヒ)。電車に揺れながら、中沢正夫さん著「他人の中のわたし」をめくる。今まで気付かなかったのだけど、この本が最初に出版されたのが1986年10月。ということは、書かれたときの中沢さんは今の私の歳。親しみと共感を覚える先人の語り口へ、想いが一層つのる。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
島に着く。電車から外の空気に出るとべたっとして、自分でも意外だったのが、冷や汗とめまいが出始めたこと。少し暗闇で呼吸をしたが、早々には治りそうもないので、何か良い食べ物を。。。とお店屋さんに寄った。急に冷たいものが欲しくなり、あずきバー・くだもの入りヨーグルト・バナナ・きゅうり・枝豆・冷奴・100%ジュースなどを買う。
少し頑張り過ぎた自分を反省する。今日は、地方に行き炎天下の下、歩いて仕事し、都内にUターンして仕事した帰りだった。東京は今週梅雨に入ったが、今日は梅雨の合い間の晴天・蒸し暑い陽気にだいぶ汗をかいた。
最近、駅のベンチでふさぎ込み苦しむ人を幾人か見た。陽気の変動が大きいから、大変だろうなと同情していたが、それが自分の方に巡ってきた訳である。
病弱だったり、入院しそうなしんどい頃を想い出した。あるいは、親の看病をしていた時を想い出した。「あと、もう一口頑張って食べてみようよ」と粘っていた日々。あるいはネコのまみちゃんやコチャコを看病しながら添い寝をしてた日々。
人は本気で苦しい時こそ、真実が見える。
苦しいときこそ、身の回りにあるものや音楽や絵や風景や生き物たち・・・そこにある優しさやいとおしさに気付く。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
それは文武両道を課せられた高校時代で言えば、疲労困憊の中まるでドラッグのように感じたイーノ一連のアンビエントやドゥルティ・コラムなど。最近で言えば、モートン・フェルドマンの一時間を超える曲『トライアディック・メモリーズ』の起承転結の無さへの心地良さなど。
フェルドマンの曲はイーノやライヒと共に、旅の頓服薬として、今カバンに入れているなかの1つである。
思えばブライアン・イーノがアンビエントミュージックを発見したのは、交通事故で苦しい入院のさなかの病床での出来事。障害を持ったり、病を背負った人と接したとき、そのまなざしや動きや会話の中に、純粋さや崇高な輝きを視て胸打たれた経験がある。
それらは病院等をはなれ、社会の雑踏に戻っていくうちに、戻った時空に紛れてしまうのだが、果たしてどちらが本当の真実の姿なのだろうか?というわだかまりとなって残る。
結論は分かっていて、前者にこそ真実があり、後者はたかが知れた、脳だけを使った・広大なヒマつぶし場所に過ぎない。何とか両者のわだかまりを解消すべく、そういった仕事に従事したいと思いながら、結局思っているだけの腰抜けで決断を下せないままココへ来ている。
そのせめてもの折衷案が、今の島での暮らしであったり、好ましい生の匂いを感じる場所を歩きつつ・知らない人や生き物や風景との出会いだったりするのだろう。
■ドゥルティ・コラム 「スケッチ・フォー・サマー」1980■
Image may be NSFW.
Clik here to view.
上の写真「フェイバリット・ペインティング」含む12インチ(1982)などとは別に、1984年ドゥルティ・コラムが既に発表した作品が、一挙に国内発売された。そのとき、アルバム「LC」のLPライナーをゼルダの小嶋さちほさんが書いていたが、風邪などの発熱でもうろうとしつつ、その病床で近付いたり遠ざかったり行き来し聴こえるドゥルティ・コラム=ヴィニ・ライリーの音を書いていたことを想い出した。
それに反して、自分にとってのドゥルティ・コラムは、夏の鮮やかな晴天の日、静かな公園などで聴くのが好みの聴き方である。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Clik here to view.

『初夏のサウンド』と呼びながら「ぜんぜん初夏的じゃないじゃないか」と言われてもおかしくない。初夏に誘われて、みずみずしい音楽を想い出す心地良いときもあるけど、あまり関係のないものも多い。
私が2015年今の時期に聴いている何もかもの音を、ぜんぶ『初夏のサウンド』だと言い切ろう、そう括ろうという無茶な試み。すべては、その一点のみにおいて貫かれている。
文字も語られる目の前の出来事もシャッターを切られた場面も。
そんな強引な、すべてを覆う風呂敷一枚だけあれば良い。身勝手な感覚のほうに揺れたり戻ったり。
帰路、この数週間・何度目かの『ピアノ・フェイズ』(スティーヴ・ライヒ)。電車に揺れながら、中沢正夫さん著「他人の中のわたし」をめくる。今まで気付かなかったのだけど、この本が最初に出版されたのが1986年10月。ということは、書かれたときの中沢さんは今の私の歳。親しみと共感を覚える先人の語り口へ、想いが一層つのる。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

島に着く。電車から外の空気に出るとべたっとして、自分でも意外だったのが、冷や汗とめまいが出始めたこと。少し暗闇で呼吸をしたが、早々には治りそうもないので、何か良い食べ物を。。。とお店屋さんに寄った。急に冷たいものが欲しくなり、あずきバー・くだもの入りヨーグルト・バナナ・きゅうり・枝豆・冷奴・100%ジュースなどを買う。
少し頑張り過ぎた自分を反省する。今日は、地方に行き炎天下の下、歩いて仕事し、都内にUターンして仕事した帰りだった。東京は今週梅雨に入ったが、今日は梅雨の合い間の晴天・蒸し暑い陽気にだいぶ汗をかいた。
最近、駅のベンチでふさぎ込み苦しむ人を幾人か見た。陽気の変動が大きいから、大変だろうなと同情していたが、それが自分の方に巡ってきた訳である。
病弱だったり、入院しそうなしんどい頃を想い出した。あるいは、親の看病をしていた時を想い出した。「あと、もう一口頑張って食べてみようよ」と粘っていた日々。あるいはネコのまみちゃんやコチャコを看病しながら添い寝をしてた日々。
人は本気で苦しい時こそ、真実が見える。
苦しいときこそ、身の回りにあるものや音楽や絵や風景や生き物たち・・・そこにある優しさやいとおしさに気付く。
Image may be NSFW.
Clik here to view.

それは文武両道を課せられた高校時代で言えば、疲労困憊の中まるでドラッグのように感じたイーノ一連のアンビエントやドゥルティ・コラムなど。最近で言えば、モートン・フェルドマンの一時間を超える曲『トライアディック・メモリーズ』の起承転結の無さへの心地良さなど。
フェルドマンの曲はイーノやライヒと共に、旅の頓服薬として、今カバンに入れているなかの1つである。
思えばブライアン・イーノがアンビエントミュージックを発見したのは、交通事故で苦しい入院のさなかの病床での出来事。障害を持ったり、病を背負った人と接したとき、そのまなざしや動きや会話の中に、純粋さや崇高な輝きを視て胸打たれた経験がある。
それらは病院等をはなれ、社会の雑踏に戻っていくうちに、戻った時空に紛れてしまうのだが、果たしてどちらが本当の真実の姿なのだろうか?というわだかまりとなって残る。
結論は分かっていて、前者にこそ真実があり、後者はたかが知れた、脳だけを使った・広大なヒマつぶし場所に過ぎない。何とか両者のわだかまりを解消すべく、そういった仕事に従事したいと思いながら、結局思っているだけの腰抜けで決断を下せないままココへ来ている。
そのせめてもの折衷案が、今の島での暮らしであったり、好ましい生の匂いを感じる場所を歩きつつ・知らない人や生き物や風景との出会いだったりするのだろう。
■ドゥルティ・コラム 「スケッチ・フォー・サマー」1980■
Image may be NSFW.
Clik here to view.

上の写真「フェイバリット・ペインティング」含む12インチ(1982)などとは別に、1984年ドゥルティ・コラムが既に発表した作品が、一挙に国内発売された。そのとき、アルバム「LC」のLPライナーをゼルダの小嶋さちほさんが書いていたが、風邪などの発熱でもうろうとしつつ、その病床で近付いたり遠ざかったり行き来し聴こえるドゥルティ・コラム=ヴィニ・ライリーの音を書いていたことを想い出した。
それに反して、自分にとってのドゥルティ・コラムは、夏の鮮やかな晴天の日、静かな公園などで聴くのが好みの聴き方である。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
